昨日の巻頭言に続き、第1回ことば文学賞の選考をお願いした高橋徹さんの「ことば文学賞選考にあたって」の文章を紹介します。高橋さんが選んでくださった作品は、順次紹介していきます。これまで集まった作品はたくさんあります。ことば文学賞応募作品だけでなく、僕たちは、これまで自分の体験を書いてきました。これらの体験は、書いた本人にとっては、自分の体験の整理になり、後に続く人たちには、今後の生きるヒントとなるでしょう。まさに、体験の宝庫なのです。

 選考は、朝日新聞・学芸部の記者として文芸欄を長年担当してこられ、現在は朝日カルチャーセンターで講師をしておられる、詩人の高橋徹さんにお願いしました。大阪吃音教室で開いている「文章教室」の講師を長年してくださっている方でもあります。
 高橋徹さんは、選考委員を快く引き受けてくださり、表彰式を兼ねた「文章教室」で、11編の応募作全ての講評と、受賞のいきさつの話をしてくださいました。

    
ことば文学賞選考にあたって
                高橋徹(詩人・朝日カルチャーセンター講師)

 「ことば文学賞を創設しました。11編、文章や詩が集まっているから、審査をして欲しい」
 こういう依頼を受けました。大役と言えば大役です。
 でも、皆様方の作品についてはもう5、6年になりますか、ずっと拝見しているものですから、たぶんお役に立つことができるであろうと思いました。
 私の場合は、発音することはまあ支障なくできていると自分で思っているのですが、ともあれ、ことばを文字にし、あるいは作品にして、それがいつのまにか自分の生業(なりわい)のごときものになった。それは単に生業ではなくて、自分の生き方を貫いているひとつの道として文章というもの、あるいは詩というものがあります。
 したがって、「ことば文学賞」という賞をお作りになったとお聞きしたとき、なんだか頭にパッと灯がともって、ちかちかとその灯がまたたいて、「ああ、喜んで引き受けますよ」と、たぶんお答えしたと思います。
 やはり、ことばを自分の生きる一番大事なものとしている者にとりましては、ことばに関わる場を持つことは大層幸せだと思っていますから、お引き受けしました。
 そうして、作品が送られてきて、早速開きました。あっと驚きましたのは、筆者の名前がないんです。「あれあれ?」と思うと同時に「ああ、なるほど」と思いました。たぶん、大阪吃音教室当局としては、「高橋という男はこちらで比較的よく、お話をしたり、皆さん方と若干の交流を持ったりしている、したがって作者の名前があれば、あるいは高橋はその名前にほだされたりしたらいかんな」と、恐らくそういう配慮で名前が伏せてあったと思います。私は私で、そのことは「良かった」と思っています。
 まさか、もうこんな年になって、そんなに人様の友情や感情を大事にして、その本質を踏み外すようなことはまずないと思っています。ないとは思っていますが、私も人間ですからあるいは、名前があったら、ひかれるかもわかりません。そういう私の配慮を一切させないようにして下さった当局に対して、私はむしろ感謝をしたい。感謝すると同時に、これは非常に深い配慮のもとにこの賞の設定が行われ、かつ、私に審査員を頼まれたということを、改めて感じたわけです。
 同時に、名前があることによって、非常にその人を意識するあまり、その人の作品が大層いいのに、「ああ、この人の作品がいいと思っているのは、僕がこの人に対して個人的にひかれているから、作品そのものはそうでもないのに、大層いいように錯覚しているのではないだろうか」という、そんな逆の奇妙な差別をすることにもなりかねないわけです。したがって、いずれにせよ名前がなかったことは、選者にとってはありがたいことであったと、改めて思いました。
 そんな風にして、冷静に作品11編を読ませていただきました。ただし、私は文章作品に対して優劣をつけるという考え方には、もともと疑問を持っています。俗にいう「うまい、へた」という言い方は許されないし、そういうことをすべきではない、と思っています。よく言うことですが、その人らしさが、その人らしいことばで書かれている。しかも一読して明快である。いや一読明快でなくても、その人が言わんとすることが読む者の胸にちゃんと伝わってくる。それはすなわち名文であると私は思っています。
 でも、こうして賞が設定され、応募された。そして、入賞するか、しないかは、応募されたときに自ら割り切っておられると考えれば、それはそれでまたいいわけです。したがって今回、一所懸命読ませていただきました。そして私は基準として、無意識のうちにこう考えていました。それは、当然ながら、どもりと自分、あるいはことばと自分。自分はそれにどう関わってきたのか、あるいはどのように苦しんできたのか、どうつきあってきたのか、まずそこのところが書かれていないと問題外である。おそらく、そのことはどなたもお書きになっているであろう。そして、そのことが自分にとって一体どういうことであるのか、生きてきたその歳月の中でどういう意味があったのだろうか、という点についても筆が及んでいれば、それは最高の出来であろうと考えました。   「スタタリング・ナウ」(1998.8.15 NO.48)

    
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/09/23