野口三千三さんの話の続きです。ちょっと長くなりますが、今日で最後です。野口体操のいくつかを紹介して下さった後、おわりにというところで、野口さんは、再び、「あなたは、吃音を治そうと取り組んでいますが、それは本当に気持ちのいいことでしょうか?」と問いかけています。
気持ちのいいことを、楽しく取り組む、これが一番で、僕たちがずっと大切にしてきたことです。セルフヘルプグループの活動も、吃音親子サマーキャンプも、僕たちは自分が楽しくて、気持ちがいいから続けてきたのです。それが、セルフヘルプグループは56年、吃音親子サマーキャンプは30年と続いてきたのです。気持ちよく、楽しくなければとても続くことではありません。同じような価値観に出会いました。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/18
気持ちのいいことを、楽しく取り組む、これが一番で、僕たちがずっと大切にしてきたことです。セルフヘルプグループの活動も、吃音親子サマーキャンプも、僕たちは自分が楽しくて、気持ちがいいから続けてきたのです。それが、セルフヘルプグループは56年、吃音親子サマーキャンプは30年と続いてきたのです。気持ちよく、楽しくなければとても続くことではありません。同じような価値観に出会いました。
野口体操から考えた吃音(3)
野口三千三
野口体操のいくつか
これから私の行っている体操のうちいくつか紹介しましょう。これは自分のからだがどのように動くか、どうあることが気持ちいいのかを知る手掛かりです。自分がからだに対して何かを命じるのではなく、からだが話していることを素直に聴くことです。
《腕のぶらさげ》
人間が立っているとき、腕がぶら下がっているということは、誰でもが知っています。しかし、当たり前のことだけに、あまり意識していないでしょう。本当にぶら下がっているかどうかを確かめようとする人は少ないでしょう。実は、普段から"ぶら下げ"を確かめていないからこそ、肩が凝ったりするのです。立っている人間にとって、宿命的に故障が起こるのは、おへその真裏のそへ、腕の付け根、首の付け根の後ろです。人間が立つためには、そこを無理せざるを得ないのです。
だから、からだをいろいろ動かしてみて、本当にぶら下がっているだろうか、腕が解放されるにはどうすればいいのだろうか、とからだに問いかけてみるのです。小理屈ばって肩をいからせないで、もっと楽に自然な状態で生きようじゃないか。"ぶら下げ"とはそういう運動です。
まず両脚を少し開いて、すっきり立って下さい。そして、からだの形にこだわらないで、楽にすっきりという感じの中で、優しく静かな上下のはずみをつけて、全身の中身を揺すりましょう。肩や腕の中身が緊張していなければ、ぶら下げた柔らかい紐や鎖のように、ゆらゆらと揺れ動くはずです。決してとび上がるのではないですよ、揺するのです。
揺するということはどういうことでしょう。
ぐっすり眠っている人を起こすときには、声をかけるだけでなくて揺すります。意識を失って倒れている人がいると、「どうしたの!」と夢中になって揺すります。このとき、揺するという行為の中には、どこか祈る気持ちが含まれています。全身を揺するとき、この祈りの気持ちが大変大事なことなのです。
祈るような気持ちで、全身を揺すって下さい。宇宙にたったひとっきりしかいない、過去にも、未来にもない、今ここにしかない自分のからだに、祈るように問いかけるのです。
《胴体や頭のぶら下げ》
「腕のぶら下げ」が確かめられたら、「胴体や頭のぶら下げ」を確かめてみましょう。高く上がる必要はありません。床から離れては激しすぎます。全身をほぐすように、自分にとって一番気持ちのよい抵抗のない揺すり方をして下さい。
「どうすればよいのですか」それは私が答えるのではなく、みなさんのからだが答えてくれるのです。
「ほぐす」というのは、とくということです。「とく」というのは、風呂敷を解く、つまり「あける」に通じます。満員電車のように、ぎっしりと詰まっていて身動きできない状態を固いといいます。
《固い》ということは動き《難い》ということです。あいていればどこへでも行けます。あいていることは可能性の前提条件です。
私はからだのことは「からだち」といいますが、“から”が“たつ”ということです。揺するのは、あいているところをできるだけつくろう、"から"に内包されている潜在的な生命力・活力を発見させることです。
この運動は、同じリズム、同じテンポで続けると分かります。時には止まったり、変化をつける必要があります。きちんと形の整ったメトロノーム的なテンポやリズムでは死んだものです。自分のからだの中から、どう動きたいかが生まれてくるのです。そのからだからの声を耳をすませて聴き、それにしたがって動けばよいのです。
《はね上げ落とし》
今までの運動は落ちることでしたが、今度は上の方向、つまり重さの反対の方向へ上げる運動です。重さと反対の方向というと、今までとは全然違う運動と思われるかも知れませんが、重さが元だということを実感していただきたいのです。
まず、左足に重さをのせて、右足の膝を曲げていって下さい。曲げていくと、右足のかかとはお尻につくはずです。この運動は簡単なように思えますが、実際にやってみると難しいものです。どんなに力を入れても、かかとは尻についてくれません。頑張ってやろうとすると、右股の後ろ側の筋肉がけいれんを起こしてしまいます。
なぜうまくいかないのでしょう。ここでもまた動きの主動力は筋肉だと思い込んでいる過ちに気づいてほしいのです。「今直接仕事をしている部分が、その仕事のエネルギーを出しているようでは、絶対によい動きは生まれない」ということを分かってほしいのです。曲げようとする右脚に力を入れないで、上下の方向へ弾みを取りながら上げると、右脚は曲がって尻を打っことができます。すぐにできる人は少ないようです。力を入れてはいけないと分かっていながら、みなさん方のからだは歪んでいるので、どうしても右脚の筋肉に頼ろうとしてしまうのです。うまくできるようになると、上げようとする右脚もぶら下がっているんだなあと、実感するはずです。
この運動から、腕のぶら下げと同様に、足も本質的にはぶら下げが大切だということを掴んでほしいのです。歩くとき、動く足に力を入れてはいけないのです。新しく前に出る足はぶら下がっていて振れる足なのです。ですから、足は単に重さ'を受ける場所だと固定して考えてはいけません。2本が2本とも突っ張ったら絶対に歩けません。どうしても1本で重みを受け、片方はぶら下げの状態にあることが、一番自然な形なのです。
《中身を放る》
次に移りましょう。腕のないからだをイメージして下さい。そして、なくなった腕の付け根から、からだの中身を液体にしてドーッとこぼして下さい。こぼすというと、散らばるような感じがありますので、中身を放るといった方がよいでしょう。
右、左、右、左、ドーッ。そういうふうに、中身を全部放って下さい。中身を全部出しても、母なる大地からどんどん補給されます。ですから、少なくとも片方の足の裏はいつも下にくっつけていなければなりません。足の裏をよくあけて、吸い付いている必要があります。ときどき中身がよく出たかどうか確かめて、残っているようならちょっと弾みをつけて全部出してしまいましょう。
中身を全部出しても、母なる大地からどんどん補給されると言いましたが、私は、人間のからだというものは、道、溝、管の集まりだと考えています。管は、入り口があり、通り道があり、出口があるものです。もしそのうちのどこか1か所でも通れなくなると、どんな立派な管でも機能しなくなります。血管や気管や食道だけが管ではありません。からだの全部が管なのです。
だから、人間が生きていく上で一番大事なことは、自分のからだにいつも好ましい道をっくる能力です。私の名前は「野口三千三」ですが、「ミチゾウ」とは「道をつくる」とも解釈できます。つまり、自分のからだの中に、必要な道をいっでもつくることのできる能力を身にっける営みが野口体操なのです。
おわりに「気持ちがいいかい?」
これまで、からだと動きについての私の考え方や私が行っている体操のごく一部をお話してきました。もうそろそろ時間が迫ってきていますので、最後に2つのことをお話しておきたいと思います。
私の話から、みなさん方は「いいからだとは、どういう状態なのだろう」と疑問を持たれたのではないでしょうか。"いい"とは、結局、各々ひとりひとりが見つけ出していくしかありません。
皆さんが染まって来られた価値観からいうと、"いい"というのは、理想的な形を目標に置いて、自分をそれに近づけようとされてきたのではないですか。だから結局は私に「いいからだとは何か」と聴きたくなるのでしょう。目標を提示してもらわないと不安になってくるのではないでしょうか。
そうではなくて、固定した目標を持たないで、その都度自分の中に出てくるものに、過去も現在も未来もいっしょくたになった自分の流れの方向に、素直に自分のからだを任せ切るのです。
私自身、その流れの方向を、「気持ちのいい方向」ということばで表しています。あるいは、「自分が生きていくのに都合のいい方向」「生きるということを保つのに具合のいい方向」とも言えるでしょう。
ただし、「気持ちいい」ということを、浅く考えると危険です。快楽を求めればいいと、短絡的に考える人も出てきます。これは、理屈よりも日常生活の中で実際に生きていく本当の姿を見つめていけば、自然と解決されます。いつもいつも、「お前、本当に気持ちがいいかい?」と、絶えず自問自答を繰り返し、飽くなき問いを続けることです。そうすれば、自ずと自分が生きていくのに都合のよい方向が見えてくるのです。
それでは、私からみなさんに問いかけてみましょう。
「あなたは本当に気持ちいいですか?」
「あなたは、吃音を治そうと取り組んでいますが、それは本当に気持ちのいいことでしょうか?」
苦痛が伴うなら、どこかで無理をしているのです。無理があると、あなたのからだやこころが、歪めたり、固めたりしていることになります。吃音を治そうとするなら、楽しみながらして下さい。吃音を治すことが楽しくなかったら、あなたにとってもっと楽しいこと、気持ちのよいことを探せばいいのです。それは、あなた自身のからだが教えてくれます。じっと耳を澄ませて聴いて下さい。あなたが求めているものは何なのか。(了)
野口三千三氏(のぐち・みちぞう)=東京芸大名誉教授・体育学、野口体操教室主宰)29日午前1時58分、肺炎のため東京都文京区の病院で死去、83歳。葬儀・告別式は4月1日午後2時から東京都台東区上野桜木1の14の11の上野寛永寺第三霊園で。喪主は長男和也(かずや)氏。自宅は東京都豊島区西巣鴨2の17の17。
独自の自然観、人間観による「野口体操」の生みの親。演劇、美術、音楽、教育、医療など幅広い分野で活躍した。体操の哲学ともいえる「原初生命体としての人間」などの著書がある。(朝日新聞 1998.3.30)
野口三千三さんの著書
☆原初生命体としての人間 岩波書店
☆野口体操・おもさに貞く 柏樹社
☆野口体操・からだに貞く 柏樹社
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/18