野口三千三さんのお話の続きです。
今回は、からだのことが中心ですが、その中に、「発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られている」と言われているところがあります。なるほどおもしろいなあと思います。
「人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということ。外側に表れているどもりという現象にとらわれすぎているのではないだろうか」これらのことばは、竹内敏晴さんもおっしゃっていました。
すうっと、心にしみこんできます。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/17
今回は、からだのことが中心ですが、その中に、「発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られている」と言われているところがあります。なるほどおもしろいなあと思います。
「人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということ。外側に表れているどもりという現象にとらわれすぎているのではないだろうか」これらのことばは、竹内敏晴さんもおっしゃっていました。
すうっと、心にしみこんできます。
野口体操から考えた吃音(2)
野口三千三
人間の動き
次に、人間の動きをこのムチによって説明しましょう。
このムチは、基(元)の部分が竹、中間が革紐、先端が麻縄で作られています。ムチの基本構造は、大きく次の3つに分かれます。
1.基の部分が太く(大きく)、先端にいくにしたがってだんだん細く(小さく)なっていく
2.基の部分が硬く、先端にいくにしたがってだんだん軟らかくなっていく
3.基の部分が重く、先端にいくにしたがってだんだん軽くなっていく
下等動物から人間に至るまで、すべての生き物の形は、基本的にムチの構造と同じです。人間は筋肉などの複雑な組み合わせによってできているだけです。
ムチを振ると、ものすごい音がします。基の部分に加えられたエネルギーが先端まで伝わり、先端の速度は音速を越えます。ムチはどこにも硬いところがないからこそ、波をうって激しく打ち当たるのです。つまり、直接仕事をする先端は軟らかい方がよく動くのです。先端の働きは、基(人間で言えば足や腰)から伝わってきたエネルギーをいかに微調整するかにあります。ピアノを弾くとき、指先で弾こうとするとすぐ疲れてしまいます。ボクシングにしても、腕だけを動かしていたのでは強烈なパンチは打てません。
声を出すことも、同様なことが言えます。発声器官はムチの先端にあたり、その先端には力が入っていてはいけません。例えば、皆さん方は「アーイーウー」と大きな口を開けて発声練習をされるのではないでしょうか。もしそうなら、却って逆効果です。軟らかくしておくべきところに意識を集中し、力を入れているだけだからです。
発声器官は、特別な練習をしなくても、動くように作られているものです。緊張するからぎこちなく動くだけです。だから、発声器官にこだわらず、からだ全体、特に肩や首を軟らかくすることを考えた方がよいでしょう。
《すべての存在は重さである》
意識と筋肉をもった人間が、からだの動きにおいて犯す最大の誤りは、動きの主エネルギーが筋肉の緊張収縮だと思いこんでいることです。
「からだの動きの主エネルギーは、筋肉の収縮力ではなく、自分自身のからだの重さである」
これが私の考えです。このことは、自分自身のからだで本当に実感しないと納得できません。実感するのに最も分かりやすい、階段のぼりで説明してみましょう。
階段をのぼろうのぼろうと意識的に努力すると、どうしても上げる脚や上体や肩に力が入ってしまいます。そうなると自分のからだの重さが負担になり、疲れてしまいます。しかし、階段を踏んだ左足にからだの重さを任せ切ると、そのとき右足にからだの重さを任せると、当然の結果として、階段(地球)から反動のエネルギーが生まれ、左足→左脚→左腰→右腰→右脚→右足と伝わっていくのです。
つまり、からだの重さをのせる(問いかけ)ことによって、地球から(答え)を受け取り、それがエネルギーとなっているのです。ですから、からだの重さこそ動きの主エネルギーです。
上にのぼっていくというのは、自分のからだの重さによって、下へ話しかけることです。からだの重さを任せ切ってしまいますから、ほとんど体重を負担と感じず、軽やかにスイスイのぼっていくことができます。ロケットを考えてみて下さい。ロケットだって地球に向かって話しかけるから上がって行くのです。
人間の動きのあらゆる現象は、重さの原理でまとまったり、流れたり、動いたりしています。そのことが分からず、筋肉と意識に頼ろうとするから、からだ全体が歪んでくるのです。先程私は、どもりの問題で大切なのは、からだ全体や肩や首を軟らかくすることだと言いました。それにはまず、自分自身のからだの重さに任せることを実感するのがよいでしょう。重さに任せてしまう、それが、人間の一番安らかで楽な状態なのです。
《豊かな動き》
「私なんかからだが固いから、体操なんてとても駄目です」
こう言う人がいます。私はこんなことを聞くたびに、そういう人たちの傲慢さが気になって仕方がないんです。からだが固いとか、運動神経が鈍いとかを自分で結論づける能力が、自分にあるとでも思っているのでしょうか。
そのような人は、おそらく、体操競技のように自由自在にからだが折れたり曲がったりすることが、やわらかいからだだと思っているのでしょう。そんな柔らかさも、もちろんある種の柔らかさではあると思います。しかし、これは単に外側に表れた形の運動だけを見ているに過ぎません。むしろ私が言いたいのは、たとえ外見的には真っすぐ突っ立っているだけで、からだが曲がらなかったとしても、からだの内部が自由自在に変化したならば、その方が"柔らか"く"豊かな"動きだということです。
もともと「動く」ということばのもとは、「うごめく」ということばです。これは、「うごうご」という擬態語から出ています。「うごめく」とか「うごうご」という語感からも感じられるように、一つのまとまった動きに対して「うごめく」ということばは使わないのです。小さいものがいっぱいいて、それがはっきり分からないように動くのが「うごめく」ということです。
外見ではほとんど動かないけれど、からだの中では非常に動いている、ということは日常生活ではしばしば体験しているはずです。たとえば、非常にうれしいとき、非常に悲しいとき、猛烈に怒っているとき、必ずしも大きく動かないけれどからだの中は波打つように動いているはずです。全体の形の変化は少ないけれど、中の変化はとてつもなく大きいわけです。
このからだの中の動きや変化こそ、豊かな動きであって、私はそれを大事に大事にしていきたいのです。
だから私は、吃音の人と話すことが少しも苦になりません。吃音の人と話していると、ことばを出そうとしているからだのもどかしさが伝わってきます。その人の中で何かが動いているのが分かるのです。しかし、みなさん方は自分の中で動いているものに気づいておられないのではないでしょうか。どもることを恥ずかしいと思い、劣等感を持っておられると思いますが、どうしてどもってはいけないのですか。考えたことがありますか。
「どうして、どもってはいけないのですか。この質問に答えられる人、手を挙げなさい」
みんなが手を挙げると、手を挙げられなかった人は自分が劣ったような気持ちになります。「あなた、答えなさい」と言われて、立ち上がったけれどなかなか言えないと、その人はみじめな気持ちになります。早く手を挙げた方が優れている、はきはきと答える人が優れている、そもそもこの考え方が誤っているのです。
人間にとって最も大切なことは、外側に表れたことではなくて、内側で何事かが起こっているということです。だのにみなさん方は外側に表れている吃音という現象にとらわれすぎているのではないでしょうか。自分の中で起こっていること、動いているものをもっと大切にしてほしいと思います。もし自分の中で起こっていることを実感でき、それがすばらしいものだと分かったら、皆さん方が持っている話し方についての価値観も大きく変化するのではないでしょうか。どもるという外側に表れる形は変わらないけれど、内側が大きく変化するはずです。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/07/17