昨日の続きです。自分のどもり方を個性にして活かすという発想は、昔も今も、変わっていない僕の発想です。

伊藤 絶対どもりたくない、できるだけ隠そうと思ったときは、どもり方は変化しないんですね。隠すテクニックが多少上達するだけで、それは症状の変化とは結びつかない。
 どもりを否定していると、自分では相手に向いてるつもりでも、相手と向かい合っていない。このことばを言ったらどもるやろうと、コンピュータが瞬間に判断して、言わないとか、言い換える。相手と向き合うのではなく、自分のどもりと向き合っている。それは、自分のどもりとのコミュニケーションで、相手とのコミュニケーションではない。
 相手と向き合うためにはまず、相手の目を見る。目を見ることで相手と向き合うと、相手も向き合わざるを得なくなる。しかし、どもる姿を見られたくないと、うつむいてしゃべる。すると、相手は関係がつかめない、関わりにくい。いかにどもっても、相手の目を見て向かい合うと相手との関係は生きる。
 しかし、目を見るということは大変難しいんですね。東野さんも、竹内敏晴さんに質問したときに「あんた、さっきから僕の目を見てしゃべってないやないか」と言われたね。相手の目を見るようになって、東野さんも電話がずいぶん楽になった。どもりとの対話ではなくて、相手と対話することが基本ですね。
 真似をしてもいいと思える《どもり方の見本》を見つけることを考えたい。真似をすることから、自分のどもり方のプロポーションを変えようということです。
 どもり方のパターンにもいろいろありますね。ブロックの難発型と、連発型がある。本来ブロックを連発型にすれば良いんだけど、なかなか大人になってからでは難しい。わざとどもるという《随意吃》がどもる人にあまり支持されなかったが、できないことは無理してせずに、できる範囲でプロポーションを変える。難発なら難発なりのしゃべり方を活かす。連発だったら連発なりのしゃべり方を活かそうと、当面考えた方がいいかも知れない。
 例えば、ノーベル賞の作家・大江健三郎さんや物理学者・江崎玲於奈さん。あの人たちは、難発型のブロックを上手に活かしているように僕には思える。決して連発型にはならない。難発型のブロックの、「間」が生きている。どもるからゆっくりではなくて、自分の個性、パーソナリティーとして、どもって声が出ない時の「間」を活かすという発想をしてもいいと僕は思います。
 僕が「間」が素晴らしいと思った人に、徳川夢声という人がいます。ラジオの時代に、宮本武蔵などを朗読していて、随分ゆっくりした話し方だなあと聞いていました。その徳川夢声さんから「間」を学んだどもる人に、社会評論家の扇谷正造さんがいます。扇谷正造さんからは、「私はかってどもったが、今はどもりではない」と、私たちが吃音の仲間扱いをした時に叱られましたが、週刊朝日の編集長時代に、徳川夢声さんと対談して、その「間」にほれるんですね。その「間」を真似たと扇谷さんは言っていました。徳川夢声さんはどもる人ではありません。
 東京都知事だった美濃部亮吉さん、知っていますか。ちょうど美濃部さんが立候補して東京都知事に初当選する時、僕は大学生でした。直接的な応援はしませんでしたが、演説会場に演説を何度も聞きに行きました。その時の美濃部さんの話し方のとてもゆっくりでした。
 「みぃ・ん・しゅぅ・しゅぅ・ぎぃ・とぉ・い・う・もぉ・のぉ・はぁ…」
 僕は、民間吃音矯正所で教えられた極端にゆっくりの喋り方が嫌だったのですが、そのゆっくりさとあまり変わらない程度にゆっくりなのに、不自然さが全く無い。ソフトな語り口に、本当にびっくりしました。絶叫型の演説がまだ多かった時代に、美濃部さんは、自分のことばで淡々と聴衆に語りかけていく。それがものすごく素晴らしかった。
 この人、上手に間を使ってるなとか、この人のしゃべり方はゆっくりだなという人を、難発型の人は、「間」を活かすというふうに、発想を考えてモデルにしてはどうでしょうか。どもるからつっかえて「間」が開くんだと考えないで、「間」をどう活かすか。どもっているそのどもり方が、その人の個性を作る。このように有名人じゃなくても、僕らの仲間の中にも、どもり方の見本はあるんじゃないかと思います。
 難発型から連発型に変えようと思ったときは、羽仁進さんや平野レミさんのどもり方がモデルになるかも知れない。羽仁進さんの話し方は軽快ですし、平野レミさんは料理番組かなんかで聞いてると、明るく楽しくどもっている。
 ことば供養の中に書いた大分のSさんは、ブロックを突き破ってでもしゃべろうとするから、派手に爆発するようにどもりますが、彼がしゃべり始めると、思わずこちらの顔がほころんできて、笑いたくなる。彼のどもり方が、その場を柔らかくし、雰囲気を盛り上げる。温かい、明るい雰囲気なんです。いつもニコニコしている。
 あなたはどのどもり方、どのプロポーションを選ぶでしょうか。
 どっちみちどもるなら、かっこよく楽しく。いっぺん、今度上手にしゃべるのではなくて、どれだけ上手に格好良く、どもるかというどもり大会をやればおもしろいと思います。

東野 どもる人の有名人で、どもっているところをあんまり見たことないが、この間、映画監督の篠田正浩さんが出てて、ちょっとどもるのだけれど、柔和な感じでゆっくりと話をしていて、感じがいいなあと思いました。軽くどもって、気にならない。

伊藤 おっちょこちょい役を演じさせるとき、昔はよく俳優にどもらせていました。森の石松役の俳優はよくどどもっていたように思います。
 ユーモアはなかなか難しいことなんだけど、昔から吃音がり笑われ、からかわれた対象になったのはやっぱり、人がどもると、聞いていて面白い部分があるからですね。
 連発型のどもり方は、面白がられる。そして笑われると、僕たちは屈辱感を感じる。だから、今度は難発の状態になってしまう。本来というか、子どもにみられる、どもり初めのころのどもっている状態は、かわいそうだなあという印象を持たれるよりも、笑いの対象であることが多い。そう考えてくると、僕たちは、期せずして笑いをとっていることになる。
 面白い人は人気があるわけですが、私たちは期せずして、苦労せずにユーモアを醸し出すことができると考えることもできるのではないかと思うのです。
 では試しに、今から自分の名前を格好良くどもって言ってみましょうか。

 (次々と試みるがぎこちない。普段どもっているのに、いざ意識してどもろうとするとできない)

平沢(男・小学校教諭) 隠そうという意識が働いたときからブロック、難発が始まったなあと思う。小さいときはものすごい早口でどもりながらしゃべってたんですよね。中学生になって恥ずかしいと思い始めて、連発じゃなくて難発になって定着していった。だから、笑われたことを恥ずかしいと思わなかったら、今頃はなんともなかったかも知れない。

伊藤 人が笑ったことを、自分に対するさげすみととるか、「笑ってもらった」と喜ぶかで随分違いますね。どもる状態を自分で判断して、今日はしゃべりにくいなあと思ったら、今日は熟慮に熟慮を重ねてるようなどもり方するとか。結局サバイバルですよね。生き残るためにほとんどの人が、どもりを隠そうとしたり、また、どもらないふりをしたりして、失敗してきた。だけど、どもってもいいと思ったときに、少しずつどもりは変化してくる。どもらないように変化させようと思ったときは、変化は起こらない。
 このままでいい、悩んでいる自分も自分だ、落ち込んでいるのも自分だと思ったとき、変わっていく。これはどもりだけに限ったことではないように思います。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/06/17