昨日のつづきです。どもる子どもの親が不安の中で、どう過ごしていたのか、細やかな記録が続きます。そのうちに治るから、本人に意識させないように、という指導は今もされているのでしょうか。意識させないようにと思っても、本人は意識しています。しゃべりにくさを一番感じているのは本人なのです。そんな中で始まった小学校生活は、クラスが荒れていて、大変な1、2年生だったようです。

どもり・親子の旅 2
                   松尾ひろ子(小学6年生・松尾政毅君の母)

『どもりのことをちゃんと知りたかったよ!』
 小学校は、地域の公立小学校に入学しました。各学年2クラスという小さな学校です。担任の先生は50歳代の女の先生でした。
 政毅の吃音のことをお話すると、「私の目の届く所で問題が起こりましたら対処しますが、それ以外では責任は持てません」と言われました。多分、吃音のことで起こるであろういじめやからかいのことを言われているのだろうと思いました。現実には、先生の目の届かない所でいろいろな問題が起こっているので、うまくやっていけるのか不安に思いました。しかし、私も小学校に勤めていますので、担任の先生の言われることも分かり、それ以上何も言いませんでした。
 入学した学級は、男子の人数が多く元気すぎてけんかや問題が絶えない状況でした。
 今までの幼稚園の環境とは打って変わって学校から帰ると、とても疲れており、毎日のように昼寝をしていました。体にはアトピー性皮膚炎が出始めました。また、一週間のうちの水、木曜日あたりの欠席が増えてくるようになりました。
 それに拍車をかけるように、毎日出される音読の宿題には親も子も疲れ果ててしまいました。音読も二人でなら読めますので、私と一緒に読んでも納得できず、ますますパニックになっていくのです。体をリラックスさせればよいかもしれないと思い、風呂上がりや寝る前に読んだりしました。しかし、読めることは読めても、政毅自身が納得できる音読はできませんでした。
 たまりかねて担任の先生に相談しました。担任の先生の方から「調子の悪い時はできるところまででいいよ」と言ってもらい、少し気持ちが楽になったようでした。
 その頃、級友から「おまえの話し方、おかしいなあ」と言われ、本人も自覚するのですが、でもどうすればよいのか分からず不安になっていたと思われます。今までも話すことに不自由さを感じていたのですが、級友から直接言われたことで「ぼくはみんなと違う」という思いをいっそう強くしたようでした。
 後に政毅は、みんなから言われる前に、ぼくのような話し方は、どもりとか吃音だということをきちんと教えてほしかったと言いました。

『話すのは死ぬ思いや』
 長男の吃音で障害センターの方に相談した時に、ことばの言い直しなどはさせたり、吃音について話題にすることは、本人に吃音を意識をさせることになるのでしてはいけない。吃音を決して意識させてはいけないのですと、言われたことが記憶として強くあり、家庭の中では吃音には全く触れずに過ごしてきました。「ことばがつまる」とか、「言いにくいね」というように表現をして直接的な表現は避けてきました。
 この頃はよく「話すのは死ぬ思いや!」と言いました。話そうとするとことばがつまるのです。あせって早く言おうとすると息が続かず苦しくなるのです。やっとのことで話し終えた後は「はあー」と大きな深呼吸をしておりました。
 また、どもっていても、私には子どもの話したいことが分かりますので先取りして言ってしまうと、「今、言おうと思っていたのに!」と言って怒りました。
 勉強にっいては何も言わなかったのですが、なわとびや九九などは、学級の誰よりも早くできるようになりたいと、必死に練習に励んでおりました。今から思うと、うまく話せないことの代償だったのでしょう。学級の中での自分の存在を確かめているようにも思えました。
 学級の雰囲気は2年生になっても変わらずで、むしろ男子の乱暴ぶりは、だんだんエスカレートしてきた感がありました。担任の先生も手を焼かれているようでした。
 そんな中、政毅は周りから吃音へのいじめやからかいの洗礼を受けながら2年生を終えました。
 春休みに児童相談所へ行きました。幼稚園の頃と比べて吃音の状態が進んでいるように思えたからです。
 校長先生を退職された方が、政毅と遊んで下さって「この子は、年齢の割に難しいことばをたくさん知っている」と言われました。吃音についてはあまり分からないようなので、結局、一回限りで通うことはしませんでした。遠いということと、学校を早退させて連れていくより今の状態の方がいいだろうと思ったからです。 1997.12(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/05/18