昨日は、吃音の父親について書きました。父親について、今後、書く機会がないかもしれないので、もう少し書いてみます。
僕は、親のことを思い出し、語り続けることが親孝行だと信じています。そういう意味で、僕はとても親孝行です。常に両親のことは思い出し、時に人に話しています。
父親の命日が僕の誕生日ですから、誕生日に父親のことを思わないことはありません。そして、父親への感謝の気持ちを確認しています。
僕は吃音は遺伝するとは考えていませんが、子ども4人の中で、僕だけに手渡してくれた宝物だと思っています。もちろん、苦悩していた21歳の夏まで、そんなことは考えたはずもないですが、かといって、自分の吃音の悩みを父親に結びつけたことはありませんでした。
「父親は僕に吃音という宝を財産として残してくれた」
僕がこう考えるのは当然のことです。吃音のおかげで大学の教員になり、世界で初めてのどもる人の世界大会を開き、吃音に関する本を15冊出版し、吃音親子サマーキャンプを30年も続けることができ、大阪吃音教室はずっと毎週、僕を楽しませてくれます。
78歳になった今も、できたら後3冊の本を書きたいとの意欲をもち、常に新しい分野から学ぼうと、勉強を続けられるのは、吃音のおかげです。10年ほど前、大学の同窓会では、「定年退職後は、釣りやゴルフばかりしている」と話す人たちばかりで、それに比べて、若い人たちと一緒に様々な活動が続けられるのは、僕が吃音に深く悩んだからで、「吃音の悩みの種」を僕に手渡してくれた父親のおかげだと、本心で思っているのです。
大学、専門学校、たくさんの研修会などで、僕は吃音についてたくさん話してきましたが、父親や母親については自分からはほとんど話していません。質問を受けたときに、それに答える形で話しただけでしたが、『親・教師・言語聴覚士のための吃音ワークブック』(解放出版社)で、初めて両親について書きました。
かなりひどくどもっていた父親、その父親を夫にもった母親が、吃音に悩む僕に何をしてくれたのか。
「どんな親でしたか」と質問されたとき「何もしてくれず、僕をしっかりと吃音に悩ませてくれた、ありがたい親でした」と答えていました。
特に父親は自分もとても悩み、僕がどもっていることを知りながら、吃音について話しかけてくれることは一度もありませんでした。おかげで、しっかりと一人で吃音に悩むことができたのです。
両親が、小学2年生の秋から吃音に悩み始めた僕の異変に気づかないわけはありません。勉強はしなくなり、友だちと遊ばなくなり、いつも暗い顔をして、家でもあまり話さなくなったのが、吃音のせいだと気づかないわけはないでしょう。吃音に悩んでいることは十分知っていたはずです。なぜなら、小学校の通信簿には、「最近、吃音が重くなっています。なんとかならないでしょうか」「吃音のせいか、無気力になっています」と書かれ、成績もどんどん下がっていったからです。高校受験の時、母親は担任から呼び出され「このままでは、三重県立津高等学校にはても合格できません。もう少し勉強をするように息子さんに言って下さい」と言われたそうです。そのとき母親は「今更、何を言ってもむだですよ。ただ、先生がそうおっしゃっていたことは伝えます」と答え、僕には「勉強したら」とは一切言いませんでした。思い起こせば、僕は子どもの頃から「勉強しなさい」とは言われたことがないのです。夏休みの宿題もほとんど期日通りに仕上げたことはありません。それでも勉強しなさいとは言われませんでした。
「学校で勉強し、友だちとうまくつき合うのも本人の責任」
そう考えていたのでしょうか。両親は吃音についても、勉強についても、アドバイスも激励もすることはありませんでした。おかげで、高校時代の成績は多分最下位に近かったと思います。当然大学は2年浪人をしました。自分が勉強しなかった責任は自分でとらなければなりません。2浪の時は三重県の津市から大阪に出て、新聞配達店に住み込んで勉強しました。東京での大学生活も新聞配達店の住み込みから始めました。家が貧しく、地元の国立大学しか行かせられないとずっと言われてきました。それは、納得のできることでした。僕の成績ではとても国立大学は無理です。東京の私立大学に行くには、受験料、入学金、その後の生活費の全てを自分で稼ぐしかありませんでした。学費が安かった当時だったからそれができたのですが、今の時代ならとても無理です。
自分のしたことは、全て自分が責任をとる
こうした自立心が育ったのも、親が「ほったらかしに」してくれたおかげです。
警察官に職務質問をされ、名前が言えずに逃げ出して、警察官に家まで追いかけられた父のこと、よく覚えています。吃音に深く悩み、苦労してきたのに、僕の方から話さなかったからとはいえ、「なぜ、一言も吃音のことを話題にしてくれなかったのか」。結局、父親にこのことを尋ねることはありませんでした。
78歳の誕生日の日、僕は三重県の奥伊勢にいました。家族が戦争中に疎開してきた三重県一志郡美杉村奥津は、そのホテルから車で1時間弱のところにあります。大阪の船場から奥津に流れてきて、多くの人のお世話になってかろうじて生き延びた僕たち家族。お弟子さんに「能・謡曲」を教えていただく月謝だけで生計を立ててきた父親。父親の謡曲の「声」だけで僕たちは育てられたのです。
そんな不安定な生活の中で、貧しさをあまり感じさせないように、明るさを失わずに、おおらかに生きてきた父親と母親でした。僕自身が、その頃の親と同じような年になった今、とても自分にはできそうにないと思いました。
一度、父親とゆっくりと吃音について話したかったと、今になって思います。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/04/29
僕は、親のことを思い出し、語り続けることが親孝行だと信じています。そういう意味で、僕はとても親孝行です。常に両親のことは思い出し、時に人に話しています。
父親の命日が僕の誕生日ですから、誕生日に父親のことを思わないことはありません。そして、父親への感謝の気持ちを確認しています。
僕は吃音は遺伝するとは考えていませんが、子ども4人の中で、僕だけに手渡してくれた宝物だと思っています。もちろん、苦悩していた21歳の夏まで、そんなことは考えたはずもないですが、かといって、自分の吃音の悩みを父親に結びつけたことはありませんでした。
「父親は僕に吃音という宝を財産として残してくれた」
僕がこう考えるのは当然のことです。吃音のおかげで大学の教員になり、世界で初めてのどもる人の世界大会を開き、吃音に関する本を15冊出版し、吃音親子サマーキャンプを30年も続けることができ、大阪吃音教室はずっと毎週、僕を楽しませてくれます。
78歳になった今も、できたら後3冊の本を書きたいとの意欲をもち、常に新しい分野から学ぼうと、勉強を続けられるのは、吃音のおかげです。10年ほど前、大学の同窓会では、「定年退職後は、釣りやゴルフばかりしている」と話す人たちばかりで、それに比べて、若い人たちと一緒に様々な活動が続けられるのは、僕が吃音に深く悩んだからで、「吃音の悩みの種」を僕に手渡してくれた父親のおかげだと、本心で思っているのです。
大学、専門学校、たくさんの研修会などで、僕は吃音についてたくさん話してきましたが、父親や母親については自分からはほとんど話していません。質問を受けたときに、それに答える形で話しただけでしたが、『親・教師・言語聴覚士のための吃音ワークブック』(解放出版社)で、初めて両親について書きました。
かなりひどくどもっていた父親、その父親を夫にもった母親が、吃音に悩む僕に何をしてくれたのか。
「どんな親でしたか」と質問されたとき「何もしてくれず、僕をしっかりと吃音に悩ませてくれた、ありがたい親でした」と答えていました。
特に父親は自分もとても悩み、僕がどもっていることを知りながら、吃音について話しかけてくれることは一度もありませんでした。おかげで、しっかりと一人で吃音に悩むことができたのです。
両親が、小学2年生の秋から吃音に悩み始めた僕の異変に気づかないわけはありません。勉強はしなくなり、友だちと遊ばなくなり、いつも暗い顔をして、家でもあまり話さなくなったのが、吃音のせいだと気づかないわけはないでしょう。吃音に悩んでいることは十分知っていたはずです。なぜなら、小学校の通信簿には、「最近、吃音が重くなっています。なんとかならないでしょうか」「吃音のせいか、無気力になっています」と書かれ、成績もどんどん下がっていったからです。高校受験の時、母親は担任から呼び出され「このままでは、三重県立津高等学校にはても合格できません。もう少し勉強をするように息子さんに言って下さい」と言われたそうです。そのとき母親は「今更、何を言ってもむだですよ。ただ、先生がそうおっしゃっていたことは伝えます」と答え、僕には「勉強したら」とは一切言いませんでした。思い起こせば、僕は子どもの頃から「勉強しなさい」とは言われたことがないのです。夏休みの宿題もほとんど期日通りに仕上げたことはありません。それでも勉強しなさいとは言われませんでした。
「学校で勉強し、友だちとうまくつき合うのも本人の責任」
そう考えていたのでしょうか。両親は吃音についても、勉強についても、アドバイスも激励もすることはありませんでした。おかげで、高校時代の成績は多分最下位に近かったと思います。当然大学は2年浪人をしました。自分が勉強しなかった責任は自分でとらなければなりません。2浪の時は三重県の津市から大阪に出て、新聞配達店に住み込んで勉強しました。東京での大学生活も新聞配達店の住み込みから始めました。家が貧しく、地元の国立大学しか行かせられないとずっと言われてきました。それは、納得のできることでした。僕の成績ではとても国立大学は無理です。東京の私立大学に行くには、受験料、入学金、その後の生活費の全てを自分で稼ぐしかありませんでした。学費が安かった当時だったからそれができたのですが、今の時代ならとても無理です。
自分のしたことは、全て自分が責任をとる
こうした自立心が育ったのも、親が「ほったらかしに」してくれたおかげです。
警察官に職務質問をされ、名前が言えずに逃げ出して、警察官に家まで追いかけられた父のこと、よく覚えています。吃音に深く悩み、苦労してきたのに、僕の方から話さなかったからとはいえ、「なぜ、一言も吃音のことを話題にしてくれなかったのか」。結局、父親にこのことを尋ねることはありませんでした。


一度、父親とゆっくりと吃音について話したかったと、今になって思います。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/04/29