今日は、吃音動画 大阪吃音教室 吃音Q&A(吃音の基礎知識)4を書く予定でしたが、それは次回にして、父親のことを書きます。
 今日、4月28日は、僕の誕生日でした。78歳になりました。不思議なことに父親の伊藤佐太郎が86歳で亡くなったのも、4月28日でした。
 その直後の、5月3・4・5日に東京で開催された、言友会創立25周年記念大会の時、主催者としての開会挨拶の時、僕は父親の話をしました。こんな話だったと思います。

 父親は子どもの頃からかなりどもり、吃音に深く悩んでいました。大阪の船場で、代々続いていた材木関係の商売を、長男として継いだのですが、どうしても吃音を治したいと「能・謡曲」を習っていました。能や歌舞伎、文楽、そして映画と旅が好きな趣味人でした。
 第二次世界大戦の敗戦で、仕事も家も失うことになりました。
 「芸が身を助ける」のことわざのように、父親を救ったのが「芸」でした。
 「吃音を治すため」が「能・謡曲」を始める動機ではあったものの、一向に治らない吃音はそのままに、「芸」を磨きました。敗戦直後の、誰もが生活に余裕のない中で、趣味の芸事にあまりお金を使う余裕はなかったでしょう。それなのに、お弟子さんが集まり、極めて貧しいながらも4人の子どもを育て、家族6人が生き延びることができたのは、父親の「能・謡曲」の芸のおかげです。「能・謡曲」、俳諧や芸事について人前で話すこともあり、不思議とそのときはあまりどもらず、家ではかなりどもっている父でした。吃音を治すために始めたのですが、結局、吃音は治らず、亡くなるまでどもっていました。
 僕は4人きょうだいです。男のきょうだい3人の中で、僕が一番父親に似ています。顔、気性、そして吃音まで。父親の葬式の時、兄が「私は謡曲という財産を父親からもらった」とあいさつしたとき、僕は「私は吃音という財産を父親からもらった」と心底思いました。
 「清貧に甘んじる」「鶏口となるも牛後となるなかれ」
 これが父親の口癖で、家元制度が縛る「能・謡曲」の世界で、どこの流派にも所属せず、一匹狼のように、独り立ちしていました。そのために貧しくても、自分の生き方を貫いた人でした。権力を嫌い、当時としては珍しい「天皇制反対」「反戦思想」の持ち主でした。
 吃音に悩んでいた時は、その父親から影響を受けているとは思いもしなかったのですが、吃音が治らず、21歳で「吃音と共に生きる」覚悟ができたのは、どもりながら主張すべきは主張し、大勢の人の前でも平気でどもっている父親のモデルがあったからだといえそうです。どもりながら明るく、4人の子どもを立派に育て上げた先輩としてみることができたことが、僕が21歳の夏に生まれ変われた大きな要因だと考えているのです。
 
 吃音に悩んでいた僕は、社会人として生きる自分が想像できませんでした。
 だから、どこかで「野垂れ死にする」とのイメージをずっともっていました。大学4年生の時、日本一周の一人旅の途中で立ち寄った金沢市の繁華街の路地裏が、よく夢に見た「野垂れ死にする」場所にそっくりだったこともあり、何の根拠もなく、63歳で死ぬと思っていたのです。その僕が、この年まで生きてこられたことは、奇跡のように思えます。
 21歳までの暗黒の人生と、その後の人生は、一般的な人が経験できないようなたくさんのことを経験し、本当に悔いのない「納得のいく人生」だったと思います。苦しかった時代のことを含めて、僕はいろんなところで自分の人生を語ってきました。このように、人に語ることのできる物語を持っていることは、本当に幸せなことだと思います。吃音のおかげです。真剣に深く吃音について考えてきて得られた吃音哲学や思想は、僕の生きる上での大切な武器になりました。
 78歳の誕生日を、故郷の三重県で迎えました。あとどれくらい物語を紡いでいくことができるだろうか、穏やかに、丁寧に生きていきたいとの思いを強く持ちました。
 幸い、僕にはたくさんのいい仲間がいます。その仲間と一緒に、まだまだ吃音について取り組んで行けそうです。85歳まで現役で「能・謡曲」を教えていた父親のようにはいかないかもしれませんが。目標にはできそうです。

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/04/28