随分前になりますが、大学進学のための予備校で有名な「河合塾」の文化講演に二回講師として呼ばれたことがあります。博多校と、北九州校です。北九州校での講演のことは、以前の「スタタリング・ナウ」に記事があり、紹介したことがあります。今回は、博多校での講演に参加した人の感想が、「スタタリング・ナウ」1997年8月号に掲載されていました。僕の講演を聞き、僕を講師として呼んでくれた人のところに書いてきた文章を、掲載したものです。僕が考えてきた「吃音を治す努力の否定」について、吃音と縁もゆかりもない人を対象にした講演でも話すことがあります。
「河合塾」は、努力をして大学に合格することを至上課題としているところです。講演依頼は「伊藤さんの体験を話して欲しい」ということだけだったので、遠慮せずに僕の人生について語りました。後でいろんな感想を送ってもらいましたが、予備校生は真剣に僕の人生に耳を傾けてくれました。確かな実感をもって「河合塾」の二度の講演を終えたのでした。昔の「スタタリング・ナウ」を今、掲載しているのですが、この文章への記憶はありませんでした。治せないものに対して治す試みは、多くの場合、人々をさらに傷つけるものだということがよく分かります。吃音の体験が、吃音ではない人にも受け入れられるということはたくさん経験しています。人間の普遍的な悩みにつながるからでしょう。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/04/13
「河合塾」は、努力をして大学に合格することを至上課題としているところです。講演依頼は「伊藤さんの体験を話して欲しい」ということだけだったので、遠慮せずに僕の人生について語りました。後でいろんな感想を送ってもらいましたが、予備校生は真剣に僕の人生に耳を傾けてくれました。確かな実感をもって「河合塾」の二度の講演を終えたのでした。昔の「スタタリング・ナウ」を今、掲載しているのですが、この文章への記憶はありませんでした。治せないものに対して治す試みは、多くの場合、人々をさらに傷つけるものだということがよく分かります。吃音の体験が、吃音ではない人にも受け入れられるということはたくさん経験しています。人間の普遍的な悩みにつながるからでしょう。
あなたのために私は治らなければならないの?
福岡市 大木繁子
河合塾の教師をしている友人に誘われて、伊藤伸二さんの話を聞きました。お話は、私の中のさまざまなことに触れました。触れた部分、全部は書き切れませんが、伝えたいことだけお伝えします。
人間ありのままに生きていくことは、不自然ではないと思います。けれど、優性思想が前面に押し出されていて、みんな同じでいなければならないという暗黙の了解というか、圧力がある現代において、なんらかのハンディがある人間は、本当に居心地が悪い社会かなと思います。
私は喘息持ちです。
今ではあまり発作が出ることはなくなりました。ただ、この病気の侮れないところは、治ったという指標のないところです。大きな発作がいつ来るのか分かりません。今は大丈夫でも、何が弾みでどうなるか分かりません。
私が病気を受け入れたのは、知り合いの人が喘息で亡くなってからです。喘息は死ぬものとは思っていませんでした。うまくつき合ってきたからだとは思いますが…。喘息は病気ですから、吃音と同じ土俵で論じることはできないかもしれません。
ただ、伊藤さんの言う、「治す努力の否定」という言葉が、私にはジーンと来ました。喘息はいろいろな原因で発症します。重症から軽症までいろんな範囲があります。治す努力をする人、もう治らない人、様々だと思います。私は喘息を持ったままでいられます。(生活できるからだろうと、言われるかもしれませんが)そして、この病気というか、身体が私を守ってくれたこともあると私は思っています。
だから、私から無理にこれを取らないでもいいと今は思っています。どんなに治せと言われても、治らなくて何が不都合なのかと思います。
私には若い友人がいます。彼女も喘息で、治す努力をしていましたが、発作は出ているようです。私は彼女の努力も分かるけれど、発作が起きたときの思いも分かります。
そんな彼女に治らなくて残念だと私は言いません。彼女は努力したんだから、喘息でもいいんだよ。治らなくても、つき合っていけるならいいじゃないと私は彼女に言うと思います。
ハンディのある子どもは頑張るんですよね。普通になるには普通以上の努力をしなければならないと、本人が一番よく分かっています。
伊藤さんが取り組んでいる、吃音サマーキャンプは、本当に意義があると思います。若い友人に会ってそれを実感しました。喘息の思いは喘息の人間でしか分からないこともあります。そして、そこでしか分かち合えない思いがあります。そこでしか、自分が存在していることを恥じなくてもいいと実感できないことがあると思います。
私は思うのだけど、「治療が大事」という人にとって、「誰にとってそれが大事か」が分かっていないとき、恐ろしいことが起きると思います。
小さいときからいろんな医者を見てきたけれど、ときたま、
「あなたのために私は治らなくてはならないのか?」
と感じたことがありました。早く良くならなくては、と言われると、言われた自分がダメだと言われているようで、嫌な思いをしたことがありました。でも治る確証がないと分かってから、医者とどうつき合えばいいのか距離感が分かってから、私は私なりに生きていけばいいかあと落ち着いてから、楽になりました。
それと、喘息を理解してくれる健康な友人と出会ったことも大きかったです。遠慮せずに、自分を隠さずにいられます。
健康な人間が、こちらに歩み寄って来てくれないかなと思います。お互いに学び合えないかなと思います。私は新しい人と知り合いになったときには、なるべく自分が喘息だと言います。特に発作になりやすい時期になったりしたら、話すタイミングは掴めます。そして、自分はこういう症状があるよと言います。こういうときに辛いよと言います。そうすることによって、お互い歩み寄ることができます。
もし発作で約束が流れても、了解してくれます。(その後の対応で人間見えちゃいますけどね)お互いに暮らしやすいように歩み寄っていけたらいいですね、本当に。
話はそれるかもしれませんが、消費者金融で電話の受付をしていた頃、吃音の人の受付を何件か取りました。必ず「ゆっくりでいいですよ」と言ってから対応していました。ゆっくり聞けば、困りませんでした。ゆっくり聞く、そのことも電話の受付をしてから、顔の見えないお客様から学んだことでした。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/04/13