ありのままに生きる

 昨日のつづきを紹介します。どもる人のセルフヘルプグループ言友会を創立した僕は、仲間と共に、活動を続けました。その頃の仲間で今も活動している人は誰もいません。僕だけがしつこく続けています。
 言友会は、全国に広がっていきました。僕たちは、吃音の学習をすすめ、海外の文献を取り寄せて翻訳したり、吃音に関する冊子を編集・発行したりしました。何よりも、どもる人の生き方を考えるようになりました。そして、それらの活動は、「治す努力の否定」、「吃音者宣言」へと結実していくのです。

 
吃音者宣言5  矯正から受容へ

読売新聞連載 写真_0005 伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)らが、吃音当事者のセルフヘルプ・グループ「言友会」を結成したのは、1965年10月。メンバー11人は、毎週日曜日、中学校の教室を借りて例会を持った。伊藤は、幹事長として会を引っ張った。
 吃音の矯正が目的だったが、伊藤は「もうどもりは治らない」という確信めいたものを感じていた。吃音症状そのものにこだわる気持ちも薄らいでいた。矯正訓練以上に重視したのは、みんなで取り組むサークル的な活動だった。小、中、高校時代を通じて孤独だった「寂しさ」の反動もあった。ダンスパーティーや映画の上映会、文化祭など次々とイベントを開いた。
 当時、大学2年で会に参加した村上英雄(48)(現・岐阜県教委指導主事)は、バックアップしてもらおうと、自民党の幹事長だった故田中角栄元首相との面会を取り付けた。田中も吃音者で、子供のころ、かなり、悩んだようだ。
 伊藤と村上が、東京・目白の田中邸を訪ねると田中は、例によって扇子をぱたぱたとさせていた。「わしは浪花節で治した。君らも頑張れ」と励ましてくれた。二人は、支援の額の多さに驚き、結局、辞退することにしたのだが…。
 こうした積極的な活動は「どもっていても、前向きになれる」ことをメンバーに実感させた。「治そうという努力が自分を苦しめる。どもりという症状にとらわれた生き方から脱却し、ありのままに生きたい」。会の活動を通じて、伊藤の思いは一層強まっていく。さんざん矯正訓練をしても治らない現実を直視した上での"到達点"だった。
 「治す努力の否定」―矯正から受容への転換。もちろん、治ることの否定ではない。この伊藤の考え方は後々まで続く「治す派」と「受容派」の論争の出発点にもなった。
 「受容」は、伊藤にとって、「どもりが治らない限り人生はない」と、周りからも思い込まされ、逃げ続けてきた自分自身、仲間の苦い経験から必然的に導き出されたものだ。価値観の転換には「治す努力の否定」という衝撃的な言葉が必要だった。
 72年、会の活動を続けながら、村上とともに、吃音研究者がいた大阪教育大学の言語障害児教育教員養成一年課程に入学。大学卒業者を対象にした課程で、修了後、村上は古里で教師になり岐阜言友会を立ち上げ、伊藤は研究生として残り、助手を2年務め、講師になった。
 助手時代、伊藤は「治す努力の否定」が社会に受け入れられるのかどうかを確かめたくて、75年10月から翌年2月まで、全国35都道府県で相談会を開き、この考え方をアピールした。各会場では「努力で治る」と、乗り込んで来た専門家らも少なくなかったが、多くの人はじっくり話すと理解してくれた。
何より収穫だったのは、どもったまま明るく生きている人が予想以上にたくさんいることが分かったことだった。それは伊藤たちを勇気付けた。
そのころ、言友会は全国に広がり、会員も約2000人に膨れ上がっていた。75年5月、兵庫県・鉢伏高原で開いた全国大会でも「治す努力の否定」は合意を得た。伊藤は「どもり」を理由に人生から逃げていた吃音者が自らを見つめ、受容するまでの経過を文章に残したいと思い始めていた。(敬称略)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/26