音読できず「怠け者」の怒声

 昨日のつづきです。この記事掲載のために取材を受けたとき、僕は53歳でした。24年前のことです。ついこの前のような気もしますが、ずいぶん前のような気も。ただひたむきに一つの道を歩いてきたなあと思います。今読み返してみて、随分たくさんのことを森川記者に質問を受けながら、よく話したものだと思います。ジャーナリストの目からの質問だったから、ここまで話していたのでしょう。僕は自分の体験をよく話しますが、今回の新聞記事は、今はあまり話さなくなったことまで話しています。それをよく短い記事にまとめてもらったと、今更ながらに感謝です。

読売新聞連載 写真_0002 
吃音者宣言2  孤立していく日々
 小学校2年生で吃音を強烈に意識し始めた伊藤伸二(53)(日本吃音臨床研究会代表)は、それまで詰まりながらも難なく言えた自分の名前さえ出なくなった。最初の一音が出ない。やっと出ても今度は「イ、イ、イ」となる。「返事が元気なこと随一」と通知簿にも書かれた1年生当時の面影はなかった。
 授業中に当てられると立ち往生する。周りからはクスクスという忍び笑いが聞こえてくる。答えが分かっても手が挙がらない。授業以上に遠足や運動会などの行事が嫌だった。
 「歩いているとき、だれか話しかけてくれるだろうか。だれか一緒に弁当を食べてくれるだろうか」。絶えず不安が付きまとった。
 忘れられない苦い思い出がある。
 6年生の時、なぜか児童会の副会長にクラスから推された。多分、だれかがふざけたのだろう。この推薦を巡ってクラス会が開かれた。「どもっていると格好が悪い」「推薦しない方がいいと思う」。残酷なまでに率直な意見が飛び出した。耳をふさぎたくなる時間だった。
「どもりは悪いもの、劣ったもの」との気持ちがますます強まった。「どもりが治らない限り、ぼくの人生はない」。悲痛な思いでかみしめた。

吃音の苫しみを理解し、味方になってくれた教師も、またいなかった。
中学2年生の時、英語の授業で、音読を命じられた。案の定、声が出ない。教師から「テストはいいのになぜ読めないんだ。家で練習してないのか。怠け者」と怒られた。
放課後、伊藤は意を決して職員室に行った。〈怠けていたのではない。どもるから読めない〉。言葉に詰まりながら、必死で訴えた。だが、教師は「分かった、分かった」と、さも迷惑そうに言っただけ。悩み抜いて申し出た結果がこの返答だった。
学校で孤立していく自分を見つめる自分がいた。自宅も安住の場ではなかった。

このころ、書店で「どもり二十日間で必ず治る」というタイトルの本を見つけ買い求めた。内容通りの発声練習を自宅近くの丘や河原でこっそり続けた。夏のある日、雨が降っていた。鏡台の前で発声特訓をしていた。
「うるさいわね。そんなことをしても治るわけはないでしょ」。
母親がどなった。
 「本には親が協力して治ったと書いてあるのに、うちの母ちゃんはなんや」。涙を飛ばしながら母親に食ってかかった。ふろしきに教科書を包んで家を飛び出した。
 実際には、数時間後に帰ったのだが、自宅でも安らぎを感じなくなった伊藤は、父親が集めていた切手をもらっては勝手に換金、夜は映画館に入り浸るようになった。一人で行く映画館はほっとした温かい場所だった。
 もう一つ伊藤の救いになったのは、中学時代の部活動の卓球だった。友人はできなかったものの、無心に白い球を追っていると気が晴れた。人付き合いでも引っ込み思案になっていたが、卓球だけは3年間打ち込めた。県大会では選手として出場できるまでの実力をつけていた。
 当然、高校に入学しても、卓球だけは続けようと考えていた。
 だが……。(敬称略、次回は十三日)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/23