学芸会の配役に屈辱感

 大阪セルフヘルプ支援センターで知り合った、読売新聞の記者の森川明義さんが、僕の人生に興味・関心をもち、僕の人生を7回にわたって、記事にして下さいました。僕は、研修会や講習会で、また本の中で、自分の人生を話したり書いたりしていますが、他者が書いてくれた僕の人生を、新聞記事として読むというおもしろい経験をしました。今日から7回の連載を紹介します。

読売新聞連載 写真_0001 
「どもりで本当によかった」。日本吃音臨床研究会(大阪府寝屋川市)代表の伊藤伸二(53)は今、自信と誇りを持ってそう言える。
 11年前の1986年8月11日正午前の国立京都国際会館Aルーム。国連の軍縮会議なども開かれた馬蹄形の威厳のある大会議室だ。世界11か国から約400人の吃音者や研究者らが集まった第1回吃音問題研究国際大会の幕が、熱気に包まれながら下りようとしていた。
 明かりが落とされた会議室で、参加者全員が立ち上がり隣の人と肩を組み「今日の日はさようなら」の曲をハミングで響かせる。当時、吃音者でつくる全国言友会連絡協議会長で、大会の会長を務めた伊藤は静かにマイクを手に取った。
 「私はどもりが嫌いでしたが、世界の仲間と出会え、どもりが好きになっている自分を感じています。3年後、ドイツのケルンでまたあいましょう」
 会場から、伊藤に惜しみない拍手が贈られた。
 世界の仲間と集いたいと、ほのかな構想を抱いてから16年、具体的な準備にも3年をかけた国際会議のフィナーレ。感激で涙があふれた。

伊藤が、初めて「どもり」を意識したのは、津市で暮らしていた小学校2年生のときだった。
吃音は3歳ごろからあったようだ。が、意識することは全くといっていいほどなかった。どもっていてもよくしゃべり、明るく元気で友だちも多かった。成績も良かった。何事にも積極的でクラスの副委員長にもなった。
 2年生の秋。恒例の学芸会が迫っていた。伊藤たちのクラスの出し物は「浦島太郎」に決まった。当時、成績のいい子が重要な役を射止めた。「当然、自分は主役の太郎役」と思い込んでいた。家族にも得意になって話した。
3週間前、担任の教師から配役が発表された。わくわくして待った。「太郎は○○君、亀は××君」。重要な役は次々に決まっていくのに伊藤の名は呼ばれない。最後に数人やっと役が振り当てられた。多数の村人役の一人。せりふは皆で一緒に言う「さようなら、亀」だけだった。
今から思えば、傲慢で冷や汗ものだが、その時は屈辱感に震えた。「どうして、成績のいい僕が……」。ふと、思い当たった。
 「どもっているから?」
 練習が嫌でたまらなかった。"その他大勢"の仲間を誘ってさぼろうとした。嫌な人間だと思ったが、独りに耐えられなかった。
 吃音を強烈に意識するようになった。成績も良く、走るのも速い。級友からも一目置かれた存在だったのが、学芸会をきっかけに、誇りや自信を急速に失ってしまい、いじけたようになった。
 いじめられるようにもなった。ちょっと言い争いになると「どもりのくせに」という言葉が浴びせかけられた。自分が正しいと思っても、その言葉で腰が引けてしまう。相手はそれを知っているから余計にはやし立てる。どんどん無口に、そして引っ込み思案になっていった。
 たくさんいた友人も、1人抜け、2人抜け……。気が付くと独りぼっち。自分自身から、吃音から逃げる人生の始まりだった。(敬称略)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/22