昨日の続きです。
藤沢周平さんがお亡くなりになった直後に特集した「スタタリング・ナウ」(1997年2月)を紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/17
藤沢周平さんがお亡くなりになった直後に特集した「スタタリング・ナウ」(1997年2月)を紹介します。
藤沢周平さんへの哀悼の意を表しつつ、どもる体験をもつ藤沢周平さんの人となりを、新聞記事、著作エッセー『周平独言』(中公文庫)、自伝である『半生の記』(文藝春秋)などを通して、紹介します。
卒業の頃
六年生の二学期が始まったとき、宮崎先生に召集令状が来て、戦争に駆り出され、ほかの教師や校長に受け持たれたりしながら周平さんは小学校高等科を卒業する。
卒業するとき、周平さんはクラスのトップになっており、卒業生総代の答辞を読まなければならなかった。どもるために声の出ない周平さんは、級友に代読してもらうことになる。どもりの屈辱は、最後までついてまわったのだという。
《私がそういう半人前の子どもになったことを、両親はとても心配し、またそのことで落胆もしたようであった。なにしろ、郡賞をもらう生徒が読むしきたりだった卒業生総代の答辞を級友に代読してもらったのは、村の小学校開校以来、おそらく私だけだったろうから。
だからもし、中学校を受験しろなとど言われても、どもりを抱える私は、多分必死になって断ったにちがいない。〈中略)
Kさんは、時々下士官養成学校のパンフレットなどをもってきて、ここを受験しないかなどと言って、私をおどろかした。
私もひそかに東京からパンフレットを取り寄せていたが、それは東京吃音矯正学院といったような名前のどもりを治す学校の説明書で、ほかに将来のことなどは何ひとつ考えていなかったのである。(中略)
昭和十七年、三月に私は村の高等科を卒業し、四月からは鶴岡印刷株式会社で働きながら、夜は鶴岡中学校の夜間部に通うことになった『半生の記』》
《ドモリの方は、宮崎先生がよそに転じられた後、いつとはなくなおった。今ならば心理的な抑圧とか何とかで説明がつく現象だろうが、当時の私には不思議なだけだった。
しかしいま私が小説を書いている根本的なところに、宮崎先生とのめぐり合いがあることは疑いがないのである。そもそも文学と終始つかず離れずかかわり合ってきたこと自体が、宮崎先生との二年間を抜きにしては説明がつかないのである。これは、なぜ時代小説を書くかという疑問よりは、よほどはっきりしていることである『周平独言』》
《私のどもりは自然になおった。それも宮崎先生の記憶が、やや薄らいだころに。
私のどもりは明らかに宮崎先生のせいだったが、私はそのことで先生をうらんだことは一度もなかった。それどころか、教師になろうとしたとき、私はあきらかに宮崎先生のことを考えていたのである。そしていま小説を書いていると、宮崎先生とどもりに出会わなかったら、こういう人生がなかったこともよくわかるのである『周平独言』》(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/17