第2回吃音ショートコースは、滋賀県・大津市で行いました。ゲストにお迎えしたのは、竹内敏晴さんでした。日本吃音臨床研究会の顧問である内須川洸さんとの対談のテーマは、「からだ・ことば・こころ」、お二人が長年考えてこられた、からだについて、ことばについて、そして、こころについて、たっぷりと語っていただきました。お二人の、やりとりに入る前のお話を紹介します。すべてが収録されている日本吃音臨床研究会の年報「からだ・ことば・こころ」は、残念ですが、完売し、在庫はありません。

からだ・ことば・こころ
 1996年9月21〜23日、滋賀県・大津市で吃音ショートコースが開かれました。
 テーマは《からだ・ことば・こころ》。特別講師に竹内敏晴さん(名古屋聖霊短期大学教授・演出家)を迎え、日本吃音臨床研究会顧問の内須川洸さん(昭和女子大学教授)を交えて、からだについて、ことばについて語り合いました。最終日の午前中のこのプログラムは、竹内さんと内須川さんの対談。伊藤伸二が司会をした3時間は、前半はおふたりを中心に話が進み、後半は参加者の声を拾いながら全員参加のディスカッションでした。テーマ通りの興味深い話し合いとなりました。その冒頭の部分だけを紹介します。

伊藤伸二(司会:日本吃音臨床研究会会長)
 今、ここで、生まれてくることばを大切にしようと思います。予めこういう話をして、こういう展開をしようということは、考えておりません。
 まず、竹内さんに口火を切っていただきます。今から、9年前になるでしょうか、大阪吃音教室に来ていただきました。私たちのところに来ていただいて、私たちのからだやことばに触れていただいた印象から話していただこうと思います。

竹内敏晴さん(名古屋聖霊短期大学教授・演出家)
 レッスンしようということで大阪吃音教室に行きまして、とにかく皆さんが話をするのを聞いて、びっくりしたんです。
 「こんなに喋れる人が何の文句があるんや」
これが最初の感想です。
 私は喋れん人間だったわけで、それがなんとかかんとか自分の言いたいことをことばにして、口から出さんとあかんと必死になった人間から見ると、皆さんはペラペラペラペラと喋る。それも、すさまじいスピードで。こんなに喋れる人が何の文句があるのだろう、これが最初の印象なんです。
 私、子どもの頃からどもる友達が、中学生の頃かな、ちらほらいました。仕事に入ってからも、国立劇場の、照明の課長をしている人が、はっきりした吃音でした。
 それから、私のところヘレッスンに来た、吃音の方が何人かいます。一様に言えば、そういう人たちはなかなかうまく喋れなくて、やっとこせっとこ喋っています。その代わり、やっとこせっとこ出した一言っていうのが、凄い迫力がある。
 吃音の人はそういうものだと思っていて、大阪吃音教室に行ったら、そんな人は一人もいなくて、みんなペラペラペラペラ喋る。ほんとに私は初め、一体、俺はここで何をしたらいいんやろと思いました。帰ろうかとさえ思いました。(笑い)
 吃音の人たちは、自分が吃音だから、なんとかそれを克服したいと一所懸命思っている。ということは、自分よりよく喋れる人の方ばかり向いているということなんです。吃音の人たちよりも喋れない人はたくさんいるわけです。吃音の人たちは、障害ということばの中にくくられるような所にいるけれど、障害者ではない。それが、ペラペラ喋れる人たちの世界に入りたくてしょうがなくているというふうにそのときの私には見えた。
 「どもる人たちよりもっと喋れない人たちにとってはどうなるんや」
 「うまくことばが出ない、やっとこせっとこ、一言一言出していくという人たちを全部切り捨てて、どもる人は上昇していくつもりか」
 大阪吃音教室のある集まりで、こうきついことは言わなかったと思うけど、話したことがありました。いささかこっちは向かっ腹が立ちかけてるところがあったわけです。
 「障害というなら障害ということをちゃんと考えたらどうや」
 「ことばがうまく喋れないということはどういうことだと思うんや」
 ただペラペラペラペラ喋ること、それをうまくやれるということばっかりに目を向けていて、それで、人が喋るということに本当になるのかという気持ちがありました。
 私が、からだということに理論的に気がついた最初は、メルロ=ポンティという哲学者の『知覚の現象学』という本に出会ったことです。その中で、ことばの問題が扱われている。彼は、言語には2種類あるという言い方をしています。
 第一は、情報伝達のための言語。これは、ひとつひとつの単語が、社会的に意味が確定している。確定している、これが大事なことです。確定している意味の単語を結び合わせて一つの文章を作る。そして、ひとつのまとまった情報を伝える。
 もうひとつの言語は、そのことばが生まれ出て来る時に、そのこと、そのプロセス自体の中で、ことばが意味をもつようになることば。
 分かりにくいかもしれませんので、私なりに言うと、今生まれ出てくることばです。自分の中で感じていることをどういうふうにしてことばにしたらいいだろうかと思って、やっとことばをみつけてくる。そうすると、それは今まで普通に聞いていることばとは全く違うような表現の仕方をする場合がある。
 例えば、《話しかけのレッスン》というのがあるんですが。何人かいるほかの人たちの、誰かを目指して話しかける。聞く人は自分に話しかけられたと思ったら手を挙げて下さいという簡単なことから始あるんです。「どんなふうに聞こえましたか」と聞くと、こんなことを言い出す人がいる。
 「うまく言えないんだけど、声が、ここをかすってあっちへ行っちゃった」「この辺でバーンと広がった」「私の方へ来たけど、その辺で落っこっちゃった」とか。
 そんなことばは、ただこういうふうに聞いたら、あの人あほやないだろうかと思うようなことばですね。その人が感じていることをことばに表していくと、そういうふうにしかならない。これは情報伝達のことばとしてはものすごくへんてこりんなことばです。社会的な意味が確定していないことばが奇妙に組み合わされてくるわけです。だけど、そういうことばが、表現ということですね。
 自分の中からことばを生み出していく。生み出されたときに初めて、今までなかったことばですから、そのときにそのことばが意味というものを生み出すという、こういうことです。
 大阪吃音教室で私が感じたことは、情報伝達のための言語をなんとかすらすらすらすら喋るようにしたいからだばかりがそこに詰め掛けているということです。自分を表現するということへの欲求が、最初に私が出会ったときにはほとんど感じられなかった。
 ひとりの人間が社会生活をするためには、情報伝達の言語に習熟していないといけないけれども、ひとりの人間が自分が生きるということをどういうふうに感じて、生きて、表していくかということになれば、表現としてのことばにおいてしか成り立たないのです。
 表現としてのことばは、必ずしも話しことばだけではありません。私は、《からだで語る》ということがとても大事だと思っています。からだで語るということがなければ、言語にはならないというふうに思っています。
 昨日、私のからだを押せと言ってなんべんもやらせた女の人がいましたね。ふたりでどんどんやったから、みなさんお分かりにならなかったと思うけれども、あれはどういうことをしたかというと、《他者を押す》ということをしたんです。
 あの方の手はいっぺん私の肩にかけるが、少しオーバーにやると、こういうふうにすぐ離れる。離れておいて、腕を棒にしてボーンとぶつかってくる。ボーンとぶつかっておいて、すっと下がる。これは、人が人のからだに触れて、その人のからだを向こうへ押しやる、ということと全然別のことです。いっぺん離れておいて自分のからだを棒にして、例えば丸太んぼうですわ、丸太棒が丸太棒にボーンとぶつかっておいてぴゃっと逃げてくる、こういうふうになっている。これは、外から見ていれば押していると見えるでしょうけど、これは人が人に対して働きかけるという意味の《押す》ではない。自分も相手も物体化しておいてボーンとぶつけるだけですからね。これも、広い意味ではからだが語ることばにはなるわけです。
 あの方が私、あるいはもっと一般的に言えば、他人、人に対して、人として向かっていないということを意味している。自分も相手のからだも、人間としてではなくてモノにしてしまわないと触れていけないという自分を語っているわけです。
 人が人に話しかける、働きかけるということはそういうことではないだろう。ちゃんと手が触れて、つながり合っているからだを向こうへとこういうふうに押すのが、人が人に対して働きかけるということです。
 ところが、情報伝達のことばというのは、とにかく、ボンボンボン、バンバンバンと、機関銃みたいに発射する。これは人が人に働きかけることばではなくて、情報という〈物〉を向こうにぶちこむというだけのことですから、私に言わせれば、相手も物体にしている、人が人に話しかけることばにはならない。こう思っているわけです。
 メルロ=ポンティは、言語の機能をもうひとつつけ加えています。言い方がちょっと違うんですけども。最初に言ったのが《情報伝達》。2番目が《表現》。もうひとつつけ加えています。それは、《よびかけ》です。
 よびかけというのは表現とはまた違うわけです。表現というのは、自分の中から、動いてきたものを相手に差し出すということ。もっとも、日本語で表現というと、差し出すという部分が欠けていることが多い。自分の中から出すことだけが表現だと思っている。それを、私は《表出》といいます。《表現》というのは、他者に対して手渡すことです。だけど、《よびかけ》というのが出てきて、それに関してはほとんど言及されていないんですけども、《よびかけ》というのは、一番、人間が人間に働きかける、非常にプリミティブな、言語機能として一番原初的なことだと私は思っています。
 《よびかける》ということがほんとに成り立たないところで、人と人とが話し合うという、話しかけが成り立つはずがない。《情報伝達》だけであるならば、人間の音声を使っての話し言葉というのが、今やどんどん機械に置き換えられているので、ほとんど必要なくなるだろうと私は思っているのです。
 大阪吃音教室に戻ります。例えば、「ここは滋賀県のなんとかいう所で、瀬田川のふちでありまして、青年会館という場所におります」というようなことを言うとする場合のことです。ひとつの文章を喋り始めるときに、もう終わりまで一緒に喋ろうとしているということなんです。一気にこれだけのことを全部喋ろうと思っている。
 そんなことはできるはずないことで、「私は」と言うときに「〜です」を言おうとしていたら、ひっかかるのが当たり前だというのが私の感じ方です。「私は」と言ったら「私は」とだけ言えばいいのに、「私は〜です」こういうことを言おうとしている。ひとつのセンテンス全部を言おうとしているということは、つまりこのことが情報の内容として、自分の中に全部なければ成り立たないわけでしょ。
 今、自分が思うことを一言一言喋っていこうというときには、先の部分はまだことばになっていない。ここから始めて、どこへたどりつくか分かっていないのですからそんなに急ぐわけにはいかない。未来とはそういうものでしょう。ここから一言一言辿っていくよりしようがない。
 ところが、これだけのことをまとめたら、これだけいっぺんに言わなければいけないというふうに思い込んでいらっしゃるというのがそのときの印象です。
 その時の印象は、いまだに変わらないですね。さっき参加者と話していたのですが、昔はずいぶん、呼吸法をやってこられたというから、ちょっと話をストップして、「ゆっくり息をしてゆっくり喋って」と言いました。息がちゃんと流れて出てくるという感じになると、すっとどもらなくなったなあというのが、私の方の印象です。
 最後に参加者が、
 「吃音ということにこだわるんじゃなくて、ことばは人間にとってどういうことかということを考えるというか、そのことの問題ですね」
 という言い方をされましたけども、私は、自分の立場からの偏見もありましょうが、常にそういうふうに思っています。
 もっと喋れない人がたくさんいて、そういう人たちがやっとこせっとこ喋れることばが、本当に人間的なことばになるにはどうしたらいいかということをひっくるめて、ことばの様態はあるのであって、その中で、吃音というものを考えて欲しい。吃音という形だけを技術的になんとかするということだったら、いつまでたっても人間的なことばを獲得するということにはならないだろうと思っています。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/04