今日は、3月1日。今年は雪も多かったようですが、それでも3月、梅のたよりも聞かれるようになりました。コロナもまだ落ち着かず、1年の6分の1が終わってしまったことになります。 
 一昨日の続きです。「ちいさな風の会」は、ゴールを決めず、唯一の決まりが、自分のことを自分のことばで話すということだそうです。僕たちも、自分のことを自分のことばで話すことを大切にしてきました。セルフヘルプグループの原点ともいえることだと思います。

ちいさな風の会と私
                        若林一美

ゴールがない、ちいさな風の会
 「ちいさな風の会」は、方法もゴールも何もありません。
 唯一の決まりが、自分のことを自分のことばで話しましょうということくらいです。
 また、決まりではありませんが、こんなことを話し合ってきました。
 「この会に入ったことによって悲しみは癒されないかもしれない。でも少なくとも、もう一つ痛みを背負うことだけはできるだけお互いに避けていきたい」
 「明るく元気に生きよう」「悲しみを乗り越えよう」などとは言わないし、それをゴールにもしていません。こうすれば良いとか、こうしなければいけないとかもありません。ですから8年間続けられたのかなあと思うこともあるんです。
 8年間ずーっと最初の頃から会を作ってきて下さった方が、ついこの間もこうおっしゃったんですね。
 「ちいさな風の会の良いとこっていうのは、元気になろうって言わないことかしら。だから元気になれたのかもしれない」
 「元気になろう」と、もしゴールを決めると、元気になった人となれない人と、境目ができてしまいます。また、一回元気になった人でも、人間ですから心が揺れたり、体調が悪かったり、真空状態の中で生きているわけではないですから、いろんな事があるわけです。揺さぶられたり揺れ動いたりして、元気そうに見えたり、元気に振る舞ってみたいときもあるでしょう。
 いろんなことがあるその人を、そのまんま受けとめていく、ということがなかったら、やっぱりその人らしさというのが出てこないのではないかなと思うのです。
 「ちいさな風の会」は、出発の時、何も求めなかったし、自助グループという言葉も、私も含めて使わなかったし、指導者や、カウンセラーがいたりして、物事をきれいに整理してみせたりっていうことも何もありません。体験者ではない私が、たまたまそこの場にいたということです。

マスコミはシャットアウト
 口コミで広がった会ですから、もっと新聞に載せたらとか、もっと社会的にテレビで紹介したら、ということもありました。
 しかし、一人が痛みを告白して、それをマスコミが取り上げることによって百人、千人の人が救えるかもしれない。でも、マスコミの犠牲になるって言ったら変ですけれども、そのせいで告白した一人が傷つくことがあるのだったら、今そのことを私たちの会の中ではしなくてもいいのではないかとの思いもあって、マスコミとはいっさい距離をおいてきました。秘密結社ではないけれども、最初の頃は、マスコミを全くシャットアウトしたところで始めました。
 とにかく私が悲しみを背負った人たちから感じた印象というのは、もう本当に背負いきれるだけの悲しみを背負ってきているということです。
 一番傷つきやすい人に状態を合わせて、本当にゆっくりゆっくり、最初は17人ぐらいで2年ぐらいやってきました。

あとに続く人のためになりたい
 「私達は、同じ体験を心置きなく出せるという体験を通してこんなに救われた。だから苦しんでいる人がいたら、やっぱりできるだけ痛みを取り除くためにこの会の存在を機会があったら話して下さい」
 1990年、会ができて2年目のころ、何人かの方たちが言い始めました。それで初めて会の事を、朝日新聞に4回連載しました。そのときにはかなりたくさんの方の問い合わせがありました。
 また、これまでの「ちいさな風の会」の記録を1994年の11月岩波書店の"生きる"というシリーズの中のひとつの号の中で『死別の悲しみを越えて』という本を書きました。これは、「ちいさな風の会」のこれまでの歩みを総括したものなのです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/03/01