水町先生が大阪吃音教室でお話をして下さったのは、1996年2月9日でした。
 大阪吃音教室が始まる前の、ゆっくりとした時間の中で、いろいろと吃音について話し合いました。吃音についての価値観が共通で、『友、遠方より来たる』と楽しいひとときを過ごしたことを覚えています。僕たちの主張と共通することが多く、僕たちの主張の理論的な裏付けとして、水町先生の研究を活用させていただいています。
 今回、大阪吃音教室でお話しいただいたものを紹介することができ、よかったです。
治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方 表紙 3 水町先生とは、『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』(ナカニシヤ出版 2005年)の本を共著で出版しました。その本の完成をとても楽しみにしておられたのですが、愛媛大学の研究室で最終の打ち合わせをした後、完成を待たずに亡くなられました。今回書いておられる「死を目前にした患者」の状態で、打ち合わせのために数日退院し、打ち合わせの翌日にはまた入院し、まもなくお亡くなりになりました。愛媛大学の研究室での最後の打ち合わせは、最後の力をふりしぼってだったと思いますが、とてもお元気で、楽しそうに話しておられました。その姿は、生涯忘れることはありません。僕にとって、本当にありがたい存在でした。

吃音について思うこと
                  愛媛大学教授 水町俊郎

日本吃音臨床研究会の年報『障害と受容』を読んで
 この創刊号を読んで、気づかされたことがあります。私は大学で、この半期の間、「障害の受容」の問題をずっと講義してきました。しかし、受容のあるべき姿、つまり、表面的なことしか話ができていなかったように思います。「受容」というものを「悟り」に近いものである「あるべき受容の姿」として、学生に講義してきたんじゃないか、と反省しています。
 この本を読ませてもらって伝わってきたのは、受容というのは、悟りきったような、解脱の心境を言うのではなくて、もっと人間くさいものである、と感じさせられました。
 このことと関連して、『「死の医学」への序章』(柳田邦男著、新潮社)の中に西川医師という千葉の国立病院の先生のことが出てきます。
 死を目前にした患者が、どういう心理的なプロセスをたどって受容に至るか、ということについて、キューブラ・ロスが引用されています。ロスは、「病気の段階がどうであれ、患者は最後の瞬間までなんらかのかたちで希望を持ち続けていました。わたしたちはこれを忘れるべきではない!」と、書いています。そう簡単に悟れるもんではない、ということです。
 また、精神科の医師であるその西川医師が、短波放送でガンセンターの大森医師と対談している中で、(以下、西川医師の発言)
 「キューブラ・ロスが、死に至るまでの過程を五段階に分けて、否認、怒り、取引、抑鬱、そして最後に受容に至るといっています。。しかし、私は転移があるところまできていますが、(私の体験では)キューブラ・ロスの五段階の通りに順々に進んでいくのではないように思うのです。ちょうど海岸に打ち寄せる波が寄せては返すように、ショックがわーっと押し寄せてきたり、それが引いて、覚悟をしなければいかんと思ったり、そういうことが何回も繰り返します。何といいますか、非常に激しい苦行をしながら、自分を創り、経験し(やがて)まあ死も仕方がないということになって受容していくのではないでしょうか。私は、まだそこまで行きませんけれど」
 西川さんは、ガンが次々に転移して、50才くらいで亡くなった方です。「受容」と、口で言うのは易しいけど、我々はそれぞれ生身の人間ですから、死んでもしょうがないや、とはなかなか思えません。
 あるいは、どもりがあるけどしょうがない、と、悩みが何もなくなるかと言うと決してそうではない。最後まで、できればそうじゃないようになりたいという気持ちは、ぬぐい去れないんだ、と。これが、受容というものの実態だということを、ここに言おうとしているわけですね。
 『スタタリング・ナウ』で、東京のSTの安藤百枝さんも同じようなことを発言されています。「治したいという、元通りにしたいという欲求は、その人が死ぬまで持っていらっしゃると思います。私はそれでいいと思うんです。それを思わなくなることが受容というふうに、スタッフが思いちがいをしています。そういうことはあり得ないと思います」とあります。
 岡山県倉敷市で「生きがい療法」をしている病院があります。そこも、今言ったような受容のとらえ方をしています。死がこわい、というのは人間の本能ですから、それを忘れることはできません。受容しきれません。これが当たり前です。だから、忘れようというんじゃなくて、あるがままで、残された人生、やらなきゃいけないことをやっていこうじゃないか、といいます。これが、生きがい療法の基本的な考え方ですね。
 受容というものはこうあるべきだ、というものではなく、また、悟り切った解脱の境地を言うんじゃなくて、悶々とするのが当たり前であり、そうでありながらだめになってしまうんじゃなくて、それでもなお、各々の役割を果たしていくことが、できるかどうかの問題です。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/19