昨日の続きです。読めば読むほど、水町先生と僕たちの、吃音に対する考え方がよく似ていることに驚きます。
 昨日、紹介した文章の最後に、水町先生は、最初勉強を始めた頃は、症状をどうやって取るかの勉強を一生懸命していたが、今は、完全にstutter more fluently approachの立場に立っているとおっしゃっています。症状だけやっていても、どうにもならないということが、私なりにわかったから、考え方を変えたのだということです。吃音研究者や臨床家で、これまでの方針を変える人はほとんどいません。吃音について真剣に向き合えば向き合うほど、吃音の当事者の考え方を聞こうとするものですが、内須川先生と水町先生は、それがとても顕著でした。水町先生の誠実さが見えます。吃音の背景にある心理に重点を置くという考え方をしていただいていること、ありがたいと思いました。

吃音について思うこと
                  愛媛大学教授 水町俊郎

どもる人の誤った観念
どもる人の誤った観念の代表的なものが、「デモステネス・コンプレックス」です。「どもりさえなければ人に負けない」「どもりさえなければ幸せになれる」逆に言いますと、どもりがあるから人に負けてばかりいますし、どもりのせいで幸せになれません。どもりのために恋人ができない、どもりのためにいい就職口がない、など、うまくいかなかったことを、何でもどもりのせいにします。そういう考え方が根底にある、「どもりさえなければ」という考え方がデモステネス・コンプレックスです。
このデモステネス・コンプレックスのことを、非常にわかりやすく、もっとひろげて言った人がジョゼフ・G・シーハンです。
彼は、「鎖につながれた巨人のコンプレックス」("Giant in chain”Complex)と表現しました。小人の国のガリバーと同じです。鎖につながれていますから、どうにもできません。しかし、鎖さえはずれたら、自分は何でもできます。
 ところが、これはおかしいのです。私はどもりではない。どもりではないから何でもできているかと言いますと、ほとんどできていません。どもりでなかったら何でもできる、ということは絶対にありません。
 こういうふうに、どもる人ができないことをどもりのせいにする、という考え方に代表されるような歪んだとらえ方を正していく、もっと前向きにしていく、というのがstutter more fluently approachの基本的な考え方であると思います。

アサーション(自己主張)の研究
アサーションについての私の研究の一つを紹介します。これはあくまでも仮説ですが、どもる人は吃音であるがゆえに、言うべきことを言わない、やるべきことをやらないで、引っ込んでいるのではないか、ということを私なりに考えました。そのことを、データーの上でどうなっているか、検証しようと思ったわけです。
10年前のその当時、アメリカにおいて、アサーション・トレーニングで吃音の指導をしたという論文に、三つあいました。ところが、一体どもる人は、吃音でない人に比べて、どの程度自己主張できているのか、ということを調べた研究は一つもありませんでした。
 そこで私は、皆さんにお願いして調査をしました。どもらない人とどもる人との間には、違いがあるかどうか調べたわけです。私の予想では、どもる人の方が自己主張ができてなくて、どもらない人の方が自己主張できてるとばかり思っていました。ところが、調べてみると必ずしもそうではない。
 ある面では確かに、どもる人よりもどもらない人の方が主張的でした。ところが別の側面では、逆にどもる人の方が自己主張をちゃんとしていて、どもらない人の方が自己主張をしていません。もう一つ分かったのは、どもる人の中を分けて比較してみますと、自己主張できている人と、できていない人がはっきりと分かれます。
 この二つのグループについて、彼らが自分の吃音をどの程度と考えているか、とか、吃音にどの程度悩んでいるかとか調べますと、これが、主張しているか(高主張群)、していないか(低主張群〉、とものすごく関係します。
 たとえば、「自分の吃音は重い」と考えている人の割合は、低主張群の方が多いのです。高主張群は、重いと考えている人は少ないのです。逆に、自分の吃音を軽いと考えている人は、低主張群では少なくて、高主張群がずっと多いのです。つまり、自分を主張できていない人は、自分の吃音を重いと思っているわけです。
 どの程度悩んでいるかについても、高主張群と低主張群とでは有意差があります。たとえば、非常に悩んでいる人が低主張群にぐっと多いのです。それに対して、高主張群は、非常に悩んでいる人が少ないのです。逆に、ほとんど悩んでいないという人は低主張群には少ないのに対して、高主張群になるとぐっと増えます。
 だから、自己主張できているかいないかということと、自分のどもりにとらわれているかいないか、ということは、非常に関係があるわけです。
 自己主張できていない人は、自己主張できていないだけでなく、自分の吃音にとらわれて、自分の吃音がひどいと自己評価し、思い悩んでいる、ということです。

吃音受容
 今までの話から、吃音の人の問題のポイントは、間違ったとらえ方を正して、自分なりに主張すべきところは主張するということになってくるわけですが、そのためには、自分の吃音を受容する、ということが前提になります。根底にそういうことができませんと、間違ったとらえ方から逃れる、ということができにくくなります。
 受容の問題は、大阪吃音教室ではよく言われていますので、どもる人の専売特許かと思われるかも知れませんが、決してそうではありません。
 受容の問題は、末期ガンを宣告されて死を受容しなければならない人の問題でもありますし、年をとってきて、自分の老いを自覚しなければならないのも、一つの受容です。人間すべてに関係する問題です。
 我々もそうです。理想と程遠い自分を認めないと、どうにもなりません。欠点の多い自分というものを受容していきます。自己受容はすべての人の共通の問題であるわけです。
 私も二十歳の頃がありました。その頃私は自分がイヤでした。男前じゃないし、頭は悪いし、性格は暗い。自己否定的な思いをした時期があります。その頃読んだ本の一つが、高神覚昇という人の「般若心経講義」という本です。その中に「塵(ちり)の効用」という項がありました。
 朝焼け、夕焼けは美しいが、それは、ちりに太陽光線が反射してできるんだ。「ちり、あくた」と役に立たない物として毛嫌いするけれども、そういう一見役に立たないと思われる物があるからこそ、人に感動を与える朝焼け、夕焼けが見れるんです。世の中に役に立たないものはない。
 これを読んだ時、私もまだ生きていく意味があると思いました。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/02/18