第一回吃音ショートコースで、大阪吃音教室の活動について報告した内容について紹介しています。昨日は、大阪吃音教室の実践を紹介しました。今日は、どもる人がどう変わっていったのか、大阪吃音教室の機関紙「新生」に掲載されていた参加者の感想文と、分析されていた文章を紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/28
開き直りだけじゃない
春木さん(48歳)会社員
「吃音への偏見を訴える―治るものと決めてかかる不幸―」(昭和52年2月、毎日新聞、編集者への手紙〜溝尻佐江子)の記事を読み、私の吃音観は大きく変わった。その記事を何度も読み、自己流に解釈し、自分のどもりは治らないものと開き直っていた。そうすることで、会議等の発言内容の乏しさで自己嫌悪に陥ることもあるが、日常生活については支障なく過ごしてきた。
この大阪吃音教室を新聞で知ったのも何かの縁、何回出席できるか疑問だが、「どもりは治らない」、ただそれだけでも確認できたら十分、そんな軽い気持ちで参加した。
しかし、回を重ねるごとに大阪吃音教室の内容の新鮮さに引き込まれ、これまでの自分がそのまま話されているような気持ちになり、うれしくなったことがたびたびあった。さらにコミュニケーションの講座に入る頃から、これは吃音講座というより社会教育を受けているような気がしてきた。今まで開き直りだけで吃音に対処し、生活してきたことが恥ずかしくなってきた。
話すことだけでなく、聞くこと、読むこと、書くことの難しさと重要さ。自分に足らないことばかり。これまで一番大切なことを忘れていたような気持ちだ。少しずつでもよい、自分を高めるために勉強していこうという気持ちが強く湧いてきた。そのために、講座の中で紹介された本を読むことから始めたいと思う。
どもりに負けそうになったとき、きっとこの講座での資料が心の支えになってくれそうな気がしている。
春木さんの感想からの分析
吃音と直面し、自分と向かい合うことが吃音と上手につき合っていく第一歩です。吃音と上手につき合うために学び、努力しなければならないことは、吃音を治す立場よりはるかに多くあります。大阪吃音教室を訪れた人が、大勢の同じような悩みを持つ人たちと共に学ぶ中で、そんなことを気づいていきます。春木さんの感想文は、そのことを表しています。
どもりだから、人とのコミュニケーションが下手であっても仕方がない。自分の吃音は治らないものと自己流に解釈し、開き直っていたものの、会議等での発言内容の乏しさに自己嫌悪に陥る。ちょっとしたきっかけで大阪吃音教室を訪れます。教室に参加していく中で、「今まで開き直りだけで吃音に対処し、生活してきたことが恥ずかしくなってきた」という自分への内省が生まれ、改めて話すこと以外の、聞く・読む・書くなどのコミュニケーションの重要さを認識します。吃音が治らなくても、自分に足りないコミュニケーション能力を磨いたり、自分を高める努力をすることで、よりよく生きることができることに気づきます。
また、春木さんの、「これは吃音講座というより社会教育を受けているような気がしてきた」という感想は、大阪吃音教室の講座の特色を示しています。
コミュニケーション能力を高ある講座や、自分を知り自分を高めるための講座内容は、どもるからしなければならないものではありません。吃音でなくても、職場などでの人間関係をうまくしたい、人生をより楽しく、より豊かに生きたい人たちにとっても役立つ内容になっています。ゆえに、「吃音教室の新鮮さに引き込まれ」、継続して参加できるのです。かつて民間吃音矯正所などで発声訓練や弁論練習など、吃音矯正訓練に明け暮れた経験を持つ人は多くいます。それらは、単調であり、どもらない人ならしないであろう訓練をしなければならないという、疎外感を感じさせ、継続することは困難でした。
有意義な人生を送りたいと願う人であれば、誰もが役立ち、学ぶ楽しさを感じさせるものでなければ、継続は難しいでしょう。(1987年8月機関紙『新生』より つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/28