過去の日本吃音臨床研究会のニュースレター、「スタタリング・ナウ」などの記事を紹介しています。たくさんの文章を書いているので、特に記憶に残っているものと、読めば思い出すものがあります。今回紹介するものは、1996年の3月号に、《吃音宣言》の全文を紹介したときの巻頭言です。全文紹介をご遺族と出版元の新潮社が特別に許可をして下さったこともあり、特に記憶に残っているものです。
 この文章は、武満徹さんの計報に接し、27年前の心地よいショックを思い出して書いたものです。世界的な音楽家で、尺八や三味線を入れた管弦楽の不思議な音色よりも、私にとっては、《吃音宣言》の方が強く心に残っています。以降、武満徹さんの名前を聞くたびに、一種の誇らしさと共に、どもらない武満さんに、吃音仲間のような親しみを感じていました。『吃音者宣言』は、《吃音宣言》に影響を受けたことは間違いありません。吃音者宣言をすることを計画し、吃音者宣言文を起草した私が、感謝を込めて書いたものです。
 
武満徹さんと吃音家
  日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二

 ダ・ダ・ダ・ダーン。
 ………ダ・ダ・ダ・ダーン。
 ベトーヴェンの第五が感動的なのは、運命が扉をたたくあの主題が、素晴らしく吃っているからなのだ。

 武満徹さんのエッセー《吃音宣言》に出会って、すでに27年になる。このエッセーは、今なお私の中で生き続けている。
 どもりは悪いもの、劣ったものと思い続けて生きてきた。民間吃音矯正所の宣伝には、必ずどもりの悲劇が取り上げられ、早く治さないと大変なことになると脅かされた。
 吃音矯正所に通い、一所懸命どもりの矯正に励んだが、どもりは治らず、1965年、吃音矯正所などで知り合った人達と言友会を創った。
 大勢の吃音者との出会いの中から、少しずつ吃音への取り組みや、考えが変わっていく。
 武満さんの問いかける、どもりが本当にコミュニケーションの妨げになるのか問い直す作業が続く。どもりを隠さないで、話すことから逃げないで、恥じらいつつも自分を語れば、ことばはどもっていても、人は耳を傾けてくれることを知る。
 吃音矯正所でも、言友会でもどもりは治らなかったが、悲劇的なことは起こらなかった。自分なりの人生を歩むことができるという確信が徐々に育っていく。「吃音を治そう」とのスローガンはいつしか色あせていく。
 この大きな変化の時、武満徹さんのエッセー《吃音宣言》に出会った。新鮮な驚きだった。吃音に対する否定的な思いは少なくなりつつあったが、吃音をプラスとまでは考えなかったからだ。
 武満さんは「自分を明確に人に伝えるひとつの方法として、ものを言う時に吃ってみてはどうだろう」と勧める。また、どもりは革命の歌だ、とさえ言う。吃音を肯定的にとらえた考え方との初めての出会いだった。
 それが、1976年の『吃音者宣言』へ繋がるとは、このエッセーに出会ったとき時の私には思いもよらなかった。
 武満さんが、このように吃音をとらえるのは何故だろうか?
 長年、音楽家同士としてつき合いの深かった、指揮者の岩城宏之さんは、次のように言う。
 「フルート二本のための曲でも、オーケストラ曲でも、不協和音でも、きれいな音でも、音符を三つ、四つ聴くだけで『あ、武満だ』と分かる。そんな自分だけの音を持つ作曲家は、ほかにはいない。また、ペラペラとうまく演奏するより、心のこもった演奏を喜んでくれた」
 この、武満さんの音楽家としての音へのこだわりと共に、出会った吃音者の影響も大きかったのではないか。《吃音宣言》は、羽仁進・大江健三郎さんというふたりの吃音者とのつきあいなしには、決して生まれることはなかったであろう。
 「親しい友人であるすばらしい二人の吃音家、羽仁進・大江健三郎に心からの敬意をもって」《吃音宣言》の冒頭のこのことばがそれを示している。吃音家とは、なんといい言葉だろう。
 エッセーを最初読んだ時には、この吃音家という表現に出会っても素通りしてしまっていた。
 私が、『スタタリング・ナウ』No.4号の巻頭で、ノーベル文学賞受賞の大江健三郎さんについて書いた時、「吃音に影響されずに生きている人にとっては、吃音者のレッテルは不本意ではないか」と書いたのは、大江さんを吃音者と紹介したことへの違和感からだった。27年ぶりに読んだ《吃音宣言》では、武満さんは、大江さんを《吃音家》と表現していた。
 2月29日、武満徹さんの告別式。「小説断筆宣言」をしていたはずの大江健三郎さんが、友人代表の挨拶でこう語った。
 「私は長編小説を書いて、あなたにささげようと思います」
                    1996年3月11日 記

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2022/01/22