東京正生学院の理事長だった梅田英彦さんの話のつづきを紹介します。
 吃音を何が何でも治さなければという機運が高まっていくのが、富国強兵政策の中でのことだったという話など、歴史を感じさせます。梅田英彦さんは、どもる人の話をよく聞く人でした。話をしっかり聞いてもらえることで、どもる人が自分でいろいろなことに気づいていったということなのでしょう。梅田さんは「吃音矯正所は、初期の頃は必要善でした。吃音で困っているのは自分だけと思っていたのが、こんなにも大勢の人がいるのかという発見。この発見する場として必要でした」と話しました。これは本当にそうだと思います。僕が当時、東京正生学院で何が一番良かったと思ったかというと、「吃音に悩んでいたのは、僕一人ではなかった」ということを知ったことでした。これは、何にも代えがたいことだったと今でも思います。今の僕があるのは、東京正生学院のおかげだと言い切ることができます。そこに行かなければ、大勢のどもる人と会うこともなかったし、言友会を創立することもなかったし、今も続いている「吃音の旅」の出発はなかったのですから。
 東京正生学院と梅田英彦さんとの思い出はたくさんありますが、またの機会に。 

鳴呼、民間吃音矯正所 (2)
         財団法人 東京正生学院 前理事長 梅田英彦

東京正生学院設立
 正しい声の院、『正声学院』が、神田の明治大学のすぐ側にありました。これも楽石社の流れを汲んではいましたが、厳しい呼吸練習や発声練習はなかったようです。
 吃音者が集まり、自由にお互いの苦しみを喋り、そして車座から一人立ち上がり皆から質問を受け、それに答えたり、自己紹介をしたりが中心でした。
 先生が、ああしろ、こうしろという方式ではなかったようです。
 私の父の梅田薫が明治大学の学生の時、そこに長く通い、一番出席率がよかったので、助手になっていました。そこの先代が引退する時、引き受けてくれと言われたのを断り、早稲田の地に『東京正生学院』を開いたのが大正12年のことです。
 正声学院の流れをそのまま踏襲されました。吃音者が集まり、互いの悩みを話し合い、真ん中の先生は、助言するわけでもなく、「ウンウン」と聞く。そして順番に挨拶や質問に答える練習でもしようじゃないかという具合でした。
 それに、丹田呼吸と瞑想、忍苦、積極、感謝、を念仏のように唱える、規則正しい生活でした。

富国強兵政策の中でどもりを治せ!
 何がなんでも吃音を治さなければならない、というような意識が矯正所の中に強くなったのは、富国強兵が国策として取り入れられてからです。
 つまり国を強くし兵を強くする、日本人一人一人が国のために強くなって欲しいという富国強兵政策。満州事変、支那事変、そのもっと前からでしょうか。国の願っている価値観を押しつける。この頃でしょう、弱虫がいつも虐げられ、排斥され始めていくのは。
 時あたかも昭和12年頃から、それまで寺子屋か禅道場の雰囲気だった正生学院の教室が急に軍国調に変わりました。正生学院にも陸軍中将○○の○○がしというのがよく来て、生徒の前で大きな声で檄を飛ばす講演会が開かれました。
 日本は今、こうこうこういう状態にある、若者は決起せよ!どもりを乗り越えて……!
 そういう偉い軍人が来て、檄を飛ばせば飛ばすほど、教室の中では、吃らないように一生懸命型にはめ、吃音を出さないような訓練がどんどん条件づけられていきました。

海外の情報
 そして戦後。情報に全く接するチャンスのない時期です。親父の書棚をひっくり返してみますとドイツのグッツマンというお医者さんが書いたドイツ語の本がありました。この人は、親と子と孫が全部お医者さんで、皆が耳鼻科が専門であり、いずれもが吃音の治療をしたと、書かれていました。その治療は、やはり呼吸法と発声法でした。
 昭和20年頃のその他の資料を見てみますと、イギリスではシェイクスピア劇場で、芝居のための発声訓練、体の動きの訓練を実践し、その中で吃音の矯正が行われています。
 ロシアでは、3歳まで沈黙の何日かを置いて、そして一語、二語と始めていき、語彙の少ない状況の中から言葉の成長過程と同じような段階で、語彙を増やしていくという言葉の再教育というか、いろんなことが書かれてあります。
 アメリカの1930年以降の研究が日本にまだ入っていなかった時、アメリカの言語病理学を日本に紹介したのが、お茶の水女子大学の田口恒夫先生です。また、アメリカからお帰りになった神山五郎先生と内須川洸先生の『どもりの話』が出版されてから、一気にアメリカの翻訳本がどんどん現れ、吃音とは何か、吃音の治療とは何か、吃音の問題とは何かの大きなテーマが巷間に広がっていくわけです。

言語治療教室
 千葉の院内小学校で『言語治療教室』設置記念の公開講演会があり、私も行きました。講堂にはあふれんばかりの人が集まっていました。
 平井昌夫先生、大熊喜代松生、それから聴覚言語センターの笹沼澄子先生、これらの方々が中心になって、NHK『ことばの治療教室』もスタートしました。
 後に言語治療教室の"治療"という言葉が取り除かれましたが、これは、担当の先生方にとっては、半分以上荷物が下りたようなものでした。
 治療という名前がついていると、小学校を卒業するまでに何としてもどもりを治して、先に送らねばと思い、真面目であればあるほどそれを背負わなければならない。治療ということばを取ってしまうだけで他に答えが沢山出てきます。
 昨夜、大阪吃音教室の歩みの発表がありましたが、その中で吃音矯正か受容かで議論が沸騰し、矯正を唱えている時は参加者が非常に多くて、受容ということになったら参加者が非常に少なくなっていったという話がありましたが、それはどこでも、全く同じなんです。
 受容ということであれば、わざわざ教室に行かなくてもいい。受容できないから困っているのに何で受容なんだ。どうやったら受容できるんだ。
 言友会でも、ことばの教室でも大きな問題になったのだろうと思います。
 その後、大阪吃音教室は、吃音受容を中心にすえながらも、充実し、再び大勢の吃音者が集まるようになったということですが、これは大変意味あることだと思います。
 一般には、まだまだ大きな問題があります。それはこの後のパネルディスカッションで、皆さんと一生懸命考えたいと思います。
 東京正生学院でも梅田薫が死去した後、もう少し範囲を広げて、大阪吃音教室と同じようなこと、ありとあらゆることをやってみました。

私の吃音臨床
 吃音矯正所である、私の正生学院に来る人は皆、ほとんどが吃音矯正治療を求めています。その中で、私は、宿舎に泊まり込み、ひたすらその方のお話を聞かせてもらいます。その人の話す言葉に対し、こちら側がどれだけ全部受け止めているかという微妙な反応さえ示していけば、1時間の面接を5回、10回と回を重ねるにつれ、受容という言葉を課題として置かなくても、その人はよく喋ってくれますし、気づいてくれます。
 必ずテープで録音し、吃音が交じっていて聞くのがゾッとするのであれば絶対聞かず、聞きたいなら聞いて、これと思ったときにテープを止めて、ノートに書いておく。
 この作業を1週間に1回繰り返していきますと、矯正という言葉を使わなくなりますし、受容とかいう言葉も使わなくなります。
 その人は、自分で自分を発見し、自分を助けていく。どうやったら自分を助けることができるかということを見い出していく。このことだけは間違いなく実感しております。

 日本吃音臨床研究会への期待
 吃音矯正所は、初期の頃は必要善でした。吃音で困っているのは自分だけと思っていたのが、こんなにも大勢の人がいるのかという発見。この発見する場として必要でした。
 戦争中は、お国の命令に一億全部それに疑いもなく従い、国のための一兵であるという観念のもとに強制的な吃音矯正法が強烈に行われました。
 机を叩いて「ドンドン!」「やり直し!」。
 不安を根底にいろんな罰が加えら、条件づけられたものは、容易なことでは取れません。
 戦後、『ことばの教室』が日本全国津々浦々に最高時1200クラスぐらいまででき、専任講師が、2000人ほどに発展しました。そこでは、1対1の教育が熱心に行われました。その結果、そこを出てその後、吃音矯正所に行くという道を選ぶのは、10人に1人ぐらいの割合になってしまいました。
 そして、吃音矯正所にやって来た吃音者は、とても重度の人ばかりでした。
 『ことばの教室』も大きな試行錯誤を続け、そして吃音者のセルフヘルプグループとしての言友会も、有為転変はありました。
 正しく、新しい展開を果たす場所。率直にものが言える場所。情報を提供し意見を出し合う場所。
 この、吃音ショートコースのような場所は、そんな意味で非常に少なくなりました。この場は本当に貴重な場ということになります。
 ここで、話し合われたことが、テープ、ビデオ、などに残されて、その後の議論に続いていくことが必要です。
 吃音の問題は、これまでの歴史を踏まえながら、今まさに新しく動いているのではないでしょうか。
 正にこれからというところで、日本吃音臨床研究会、大阪吃音教室、神戸吃音教室の奮闘を願うや切に。(了)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/12/30