第1回吃音ショートコースの概要について紹介しました。プログラムを、参加者みんなで作るということからスタートしたショートコースでした。ゲストとしてお迎えした、東京正生学院の梅田英彦さんの話を紹介します。東京正生学院は、僕にとって、いろんな意味で大きな場でした。治したいと思っていた頃には、憧れの場所であり、初めて自分のことを自分のことばで語り、聞いてもらえた場所であり、ほかのどもる人の体験を聞いた場所であり、どもれる体になった場所でした。
梅田英彦さんは、どもる人に温かく、多くのどもる人から慕われていました。父親の梅田薫さんの「どもらずに話すための、極端にゆっくり話す」と対立しながら、アメリカの言語病理学の「どんどんどもれ」の随意吃音を教えてくれた人でした。僕も大好きな人でした。だから、第一回の吃音ショートコースには是非来て欲しいとお願いしました
父親が作った民間吃音矯正所で最も有名で大きかった東京正生学院の理事長として、活躍されました。このとき、梅田英彦さんが話して下さった、東京正生学院や民間吃音矯正所の紹介は、とても貴重な資料だといえるでしょう。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/12/29
梅田英彦さんは、どもる人に温かく、多くのどもる人から慕われていました。父親の梅田薫さんの「どもらずに話すための、極端にゆっくり話す」と対立しながら、アメリカの言語病理学の「どんどんどもれ」の随意吃音を教えてくれた人でした。僕も大好きな人でした。だから、第一回の吃音ショートコースには是非来て欲しいとお願いしました父親が作った民間吃音矯正所で最も有名で大きかった東京正生学院の理事長として、活躍されました。このとき、梅田英彦さんが話して下さった、東京正生学院や民間吃音矯正所の紹介は、とても貴重な資料だといえるでしょう。
鳴呼、民間吃音矯正所
財団法人 東京正生学院 前理事長 梅田英彦
伊沢修二の楽石社
明治6年、伊沢修二という非常に優秀な若者が、国から派遣されてアメリカに行きます。
電話を発明したグラハム・ベルは、実は聾教育のパイオニアであり、彼はそのグラハム・ベルに聾教育を習って帰りました。
伊沢修二は、日本における聾唖学校の始祖であり初代校長でもあります。
大変器用な方で音楽の勉強もされ、国立の音楽学校の校長もされました。教育に大変功績のあった方ですが、ついでに、とんでもない吃音の矯正法を日本に持ち込んだのです。
彼の周辺に吃音者がいなかったなら、教育の現場で吃音で苦労している人の悩みを聞いたことがなかったなら、恐らく吃音矯正法というものを日本に持ち帰ることはなかったでしょう。
不幸なことに、不幸か幸いかは、どちらか分かりませんが、彼にはどもりの弟がいたのです。
彼は、聾教育での口の開け方、動きを見て音を読み取る手法からヒントを得て、アイウエオをはっきり口形して発音し、息を長く出させるような、一番基本の基本から弟に教えています。
寝転んだままの腹式呼吸、立っての腹式呼吸、腰を掛けての腹式呼吸の練習もしています。
書物によると、さらに、ハとへとホは声帯が一番開くと、ハの形をとってハーと、への形をとってヘーと、先ずこの三つの音の出し方をハヘホ練習としてさせました。そして、「ワータークーシーワーハー……」という練習をさせました。
非常に丁寧な一語一語の口形練習と、それを支える心身的な動揺をコントロールするための腹式呼吸と、大きくはこの二つだけなんです。
彼は、功なり名を遂げて退官してから、東京の小石川の後楽園の近くに楽石社という学校を創立します。明治36年のことです。
生徒募集の一番最初は、英語、フランス語、ドイツ語、中国語……の外国語学校だったんです。
ほんのつけ足しに、吃音矯正事業を新聞広告に出したんですが、外国語には人は来ないで、何と吃音矯正事業だけに日本全国からワンサワンサ、信じ難い数の人々が集まったのです。
彼が、吃音矯正の事業を取り入れたのは、自分の弟の吃音が本当に改善されたと確信したからでしょう。本当のところは、弟さんに聞いて見なければ分かりませんね。何をもってこれを吃音矯正法として発表したのか。その根拠を彼の本などを裏返して見ても縦から横から読んでも、私にはどうにも納得できません。
そういう意味では、自分の親父が書いた本も、どうも納得できないのと同じです。私は疑い深い人間なんですね。
とにかく教育界の権威が開いた施設ですから、吃音で悩んでいる方がワンサカワンサカ集まりました。吃音矯正事業が外国語学級よりもはるかに楽石社を支える大きな根幹事業になったわけです。
雨後の筍のように吃音矯正所が
彼は、そんなに長生きされなくて、彼が亡くなった後、門下の優秀な助手二人が、楽石社と袂を分かち合って、片や東京に、片や大阪に旗揚げをして、楽石社の流れを組む正統な吃音矯正法を教える所として、矯正所を開設しました。
しばらくは、繁盛したのですが、いかんせん彼ほどの教育的信用を背景にもっていません。何日経っても結果が上がらないと、一気に人が引くとか、不満の塊がぶつけられたりしました。
その後、吃音矯正所は群雄割拠の時代を迎え、あちこちにできました。あそこは3週間、俺のところは2週間、イヤ俺のところは1週間だ、しまいには20分で治すというところまで出て来たものです。もし治らなかったら代金は即座に返す、との宣伝も争ってなされました。
こういうのが、大正から昭和の初期に雨後のタケノコのようにワーッと発生、そのため楽石社の力が一気に衰えてしまいました。
後に続くこれらが、例え誤りがあったとしても、学問とか人を大事にするとかで、何でもいいから一本芯の通った価値意識をもって貫かれていれば、楽石社の後に続く、大勢の人の集まるところとなったのでしょうが、そうではなかった。
とにかく吃音で苦しんでいる人は、悩むあまりにどこかに自分を委ねるところ、人はいないかと捜す時代がずーっと、明治、大正、昭和30年頃まで続きました。
このような状況の中、吃音矯正所は互いに中傷広告を出し、『あそこは伏魔殿である』と、言い合ったものです。
東京正生学院にも随分ビラが届けられ、親父がそれを見てニヤニヤ笑っており、その側で私が、『伏魔殿』の字を見て、おもしろい字を書くのだなあと思っていたこと、今でも忘れません。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/12/29