今回、紹介する巻頭言。僕は人にとって大事なことのひとつとして、よく「想像力」について話します。不寛容な時代である現代、他者への想像力と、それへの信頼が、求められていると思います。1995年12月に書いたものです。

想像力への信頼
   日本吃音臨床研究会 代表 伊藤伸二

 「いいやん。どもっても別に。あまりそれにこだわるとかえって苦しくなるわよ」
 「何言ってるのよ、母さんに、私のどもりの苦しみなんか分らないわよ」
 子どもにこう言われて「ウーン」となった。

 吃音ショートコースの《吃音受容》のディスカッションの時、小学校5年生のどもる子どもの親から出された話だ。
 経験の少ない子どもが、このように考えるのは仕方のないことだろう。しかし、成人になってもこのように言うとなると、困ったものだ。
 「どもる人のセルフヘルプグループには、それ以外の人を寄せつけまいとする雰囲気がある」
 吃音研究者からこのようなメッセージが寄せられたことがある。実際の例会に全く参加しないでの指摘に、私たちは納得がいかなかったが、まわりの人がこのような先入観をもっているのは事実のようだ。
 「どもりでない人に、僕の悩みは分からない」
と誰かに言われた経験があったのかも知れない。
 確かに、親にも教師にも友達にも、吃音の悩みは話せなかったというどもる人は多い。しかし、その後の人生経験の中で、人はそれぞれに悩みや、苦しみをもっているのだということを知った。
 私よりも、厳しい状況にあると思える人が、それを受け止め、自分なりの人生を歩もうとしていることも知った。
 それでもなお、「どもりでなければ、この苦しみは分からない」と他者を寄せつけないのは、その人の想像力を問題にしないわけにはいかない。
 他者の悩みに気づかないか、気づいても、自分とは違うと思うのか。このようなどもる人が少なくないのも、また事実なのだと受け止めたい。
 このような人は、同じどもりの人と出会っても、「僕の症状は君より重い。君のようなどもりの軽い人に、重い人の気持ちは分からない」と、いうことになるのかも知れない。
 吃音はひとりひとり違う。家庭、職場環境、そして能力も。それらが違えば、悩みは自ずと変わる。どもる人同士でも、本当のところは、その人でなければ、その人の苦しみは分からない。
 人は本来、完全には分かりあえないものだとの前提に立ったほうがいい。その前提で、存在する垣根を越えるのは、互いの想像力だ。
 「あなたはどもりではないから、私の苦しみは分からない」と、どもる人が心を閉ざしてしまうなら、誰も吃音の問題を共に考えてくれなくなるだろう。
 人と人がつながり、生きることを語るとき、どんな個別、固有のことでも、その中には必ず普遍的なものがあると信じている。
 だから、今秋開いた、吃音ショートコースに、どもる人以外の方々がたくさん参加して下さったことが、なによりもうれしかった。
 どもる人は自らをさらけ出した。また、どもらない人たちも、自らの体験を率直に語って下さった。
 どもる人だけではとても得られない、深まりのある話し合いがもたれた。そしてそこには、温かいものが流れていた。
 いじめの問題他、方々で起こる様々な問題は、この他人を思いやる想像力のなさにきている。
 人と人が結びつき、互いにより良く生きる条件をつくりあげていくのは、他人を思いやる想像力で、それに対する互いの信頼だと私は思う。

 「お母さんもこんな事で悩んでいるから、あなたの辛さは分かるわ」
 母親がこう言った時、「お母さんは、どもりじゃないけれど、私の辛さをわかってくれている」と、母親を信頼する。また、その母親のもっている辛さを想像できる子どもに育てたい。
 他者を思いやる想像力と、その想像力に対する信頼があってはじめて、互いが共感できるのだ。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/12/27