毎月発行しているニュースレター『スタタリング・ナウ』の過去の号を紹介しています。今日は、1995年11月発行のNO.15です。このときは、「国際吃音連盟」というタイトルの巻頭言を書いていました。ちょうどその年の7月に、スウェーデンのリンショーピンで、第4回世界大会が開催されたからでした。当然、僕もその大会に参加する予定でいたのですが、その年1月の阪神淡路大震災は、関西地方に住む僕たちに大きな傷跡を残しました。第1回から僕が提起してきた国際吃音連盟が設立される大会だったので、参加したかったのですが、参加できなくて残念でした。しかし、この国際吃音連盟の設立には、第一回大会を京都で開いた日本の伊藤伸二の貢献があると紹介してくれたそうです。
国際吃音連盟の設立に向けて、運営委員会のメンバーとして、ドイツのトーマス・クラールと、アメリカのメル・ホフマンと僕の三人委員会が仕事をしてきました。1992年にはサンフランシスコのメル・ホフマンの自宅で、3人でいろんなことを話し合ったことを懐かしく思い出します。
トーマス・クラールとメル・ホフマンと僕の3人は、吃音に対する考え方も近く、本当にいい仲間でした。世界大会の度に2人に会うことがたまらなくうれしいことでした。
アメリカのメル・ホフマンはその後、京都に遊びに来て、京都で再会しました。トーマスは、残念ながら、病気になって活動から離れました。メルも高齢で離れました。僕も、その後日本の広島で開かれた国際大会の基調講演を国際吃音連盟から依頼されたのですが、事情があって断り、その後は、国際吃音連盟の活動からは離れました。
1986年の京都で開いた第1回世界大会から、今年で36年経ちました。2013年の第10回オランダ大会での基調講演が、僕の国際大会での舞台の最後となりました。
京都で、そしてその後の世界各地での世界大会の感動と興奮は、今も僕が吃音に関わる時のエネルギーになっています。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/12/26
国際吃音連盟の設立に向けて、運営委員会のメンバーとして、ドイツのトーマス・クラールと、アメリカのメル・ホフマンと僕の三人委員会が仕事をしてきました。1992年にはサンフランシスコのメル・ホフマンの自宅で、3人でいろんなことを話し合ったことを懐かしく思い出します。
トーマス・クラールとメル・ホフマンと僕の3人は、吃音に対する考え方も近く、本当にいい仲間でした。世界大会の度に2人に会うことがたまらなくうれしいことでした。
アメリカのメル・ホフマンはその後、京都に遊びに来て、京都で再会しました。トーマスは、残念ながら、病気になって活動から離れました。メルも高齢で離れました。僕も、その後日本の広島で開かれた国際大会の基調講演を国際吃音連盟から依頼されたのですが、事情があって断り、その後は、国際吃音連盟の活動からは離れました。
1986年の京都で開いた第1回世界大会から、今年で36年経ちました。2013年の第10回オランダ大会での基調講演が、僕の国際大会での舞台の最後となりました。
京都で、そしてその後の世界各地での世界大会の感動と興奮は、今も僕が吃音に関わる時のエネルギーになっています。
国際吃音連盟
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二
どもりに悩んで生きてきた。何としてもどもりを治したいと思った。どもりを持ちながらの人生など考えられなかった。どもっている間の人生は、《仮の人生》で、どもりが治ってからの人生が、《本当の人生》だ。そう思うことで、いいようのない不安、自己嫌悪感から一時的に逃れられた。
「どもりで良かった」
そう思える日など来るとは思えなかった。そんなことば自体思い浮かばない。
1986年夏、国立京都国際会館の会議場。第1回吃音問題研究国際大会のフィナーレ。海外10か国からの34名を含めて、400人の参加者全員が立ち上がり、輪になって肩を組み、「今日の日はさようなら」を歌う。最後にハミングに切り替え、目を閉じてもらった。
大会会長としてマイクをもった私は、ハミングをバックに静かに四日間の大会を振り返り、3年後ドイツ・ケルンで会いましょうと呼びかけた。
目を閉じながらの挨拶を終えた時、「どもりで良かった」の思いが胸一杯に広がった。
21歳頃までが、どもりを否定し、どもりを恨んだ人生。言友会を作ってから少しずつどもりを受け入れていく人生だった。そして、この国際大会で、これまでのどもりに対する恨みつらみがすっかり消え、どもりが好きになっていた。
これまでの辛い人生を帳消しにできるほどの体験だった。国際大会は私の吃音受容にとってのターニングポイントとなった。
最終日、オランダの吃音研究者ストラナラスさんは、「この大会のおかげで、《どもりは美しい》と自信を持って言うことができる」と発言した。
その第1回吃音問題研究国際大会で、私たちは国際吃音連盟の設立を提案した。ところが、これまで海外のグループが互いに連絡を取り合うことはなく、参加した10か国からの参加者も、国やグループを代表するという立場で参加したわけではなかった。国際大会そのものが、今後継続されることすら半信半疑であった。まして国際吃音連盟など思いもよらなかったのだろう。
しかし、この国際大会は、世界の吃音問題に大きなインパクトを与えた。ヨーロッパの諸国がまず、集まりを持ち始めた。吃音研究者の会議も、京都大会の趣旨である、吃音者を含めて論議しようとの気運が高まり、昨夏ヨーロッパで第1回の国際吃音学会が持たれた。また、私たちの国際大会も、ドイツ、アメリカと回を重ねるごとに参加国も増えた。そして、今回、第4回のスウェーデン大会で国際吃音連盟が設立された。
ヨーロッパをまとめ、この連盟設立に最も力を注いだ、ドイツのトーマス・クラールは、私への手紙の中で、「世界中の吃音者がひとつになって動いているのが感じられた素晴らしい一日、歴史に残る一日」と表現した。世界5大陸すべてから25団体が参加する、国際吃音連盟がスタートした。
夢がまたひとつ実現し、私はますますどもりが好きになっていく。
どもりを否定し続けてきた人が、吃音を受容する道のりは決して平坦ではない。受容ということばさえ思い浮かばないだろう。
どもりを真に受容するためには、どもりを否定してきた人生と、相殺できるほどの、人やできごと、ことばなどとの出会いが必要だ。
人は、感動体験なしには変われない。
果たして、そのような体験ができるだろうか。
私にとってのターニングポイントが国際大会であったように、誰にもそれはあると信じたい。
末期ガン患者と、ヨーロッパ・アルプスの最高峰モンブランに挑み、登頂に成功した倉敷市・柴田病院医師伊丹仁朗さん。伊丹さんから戴いたご著書『生きがい療法でガンに克つ』(講談社)にこうサインして下さった。
「人それぞれに人生のモンブランが在る」 1995年11月記
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/12/26