毎月発行している、日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」は、現在326号まで発行ました。随分長く、毎月発行してきたことになります。コロナ禍の中、様々なイベントが中止になる中で、何か発信をし続けたいと考えましたが、毎日書くネタがあるわけではありません。そこで、以前僕が書いた文章を含めて、昔の「スタタリング・ナウ」を紹介すると言ってスタートしたのに、いろいろと脱線してしまい、途切れてしまいました。
 1994年11月1日に書いた文章の紹介から、再開します。
 
 以前は使っていたが、最近は全く使わなくなったことばに、「吃音者」があります。僕たちは、どもるけれど、いつでもどもっているわけではないし、どもることだけが自分を表すことばではないし、どもっている以外にもいろんな自分がいるし、そんな思いで「吃音者」を使わなくなりました。しかし僕も以前は「吃音者」を使っていました。「吃音者宣言」を書いた本人なのですから。でも、今はできるだけ使わないようにしています。今日、紹介するのは、そうして使わなくなったきっかけになったような文章です。
 ところで、10年ほど前までは全く使われていなかった「吃音症」ということば、今、周りの人間だけでなく、どもる人本人も平気で使うようになりました。なぜ「吃音」ではなくて「吃音症」を使う必要があるのか、僕たちはさっぱり分かりません。厚生労働省が勝手に言い始めたことばを、どもる人本人が使う意図は何なのでしょう。
 「吃音症」についてはこれまでも書きましたが、吃音を、病気でも障害でもなく、単なる「話しことばの特徴」だと考えている僕は、病気の症状を現す「吃音症」は認めることができません。「治すべきもの」となってしまいかねないからです。「吃音と共に豊かに生きている」人に、「吃音症」は全くそぐわないのです。「吃音症」には嫌悪感をもちますが、「吃音者」は時に使ってしまうほどに便利なことばではあります。
 しかし、今は、冒頭で書いたように「吃音者」は使わずに、できるだけ「どもる人」に言い換えています。
 「スタタリング・ナウ」のNO.4、大江健三郎さんのことを書いた文章を紹介します。
  
『スタタリング・ナウ』NO.4 1994.11.1

ノーベル賞と吃音者
    日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二


 ―「エッ、江藤、しっ、しっかりしろよ。エ、江藤、お前は堂々としているなあ。しっ、しっかりしろ。だ、だいじょうぶか。江藤。お、お前本当に堂々としているな」
 大江はほとんどひとりごとをいっているのであった。私が聴いているなしにはおかまいなく、吃りをまるだしにして、さすってくれながらそうつぶやいていた。これを聴くうちに、私の両の眼に熱いものがあふれてきた。そういえば、大江が「お前」と言ったのも私を「江藤」と呼び捨てにしたのも、このときがはじめてだったような気がする。大江がそれをまるでひとりごとのようにいっているのがよかった。私はその時、大江の優しさが私を包むのを感じた。―
                   大江健三郎全作品2 付録 新潮社

 若いころ、羽仁進さんらと一緒に飲んで泥酔し、みじめになっている時、大江さんから受けた介抱を、江藤淳さんがいつまでも覚えている。大江さんの人柄が偲ばれて心温まる、エピソードだ。
 「ノーベル賞の受賞者は日本に8人いるが、その中に吃音者が2人いる。物理学賞の江崎玲於奈さんと今回の文学賞の大江健三郎さんだ」との誰かの発言から、大江健三郎さんのノーベル文学賞受賞が決まった次の日、大阪吃音教室で大江さんのノーベル賞受賞が話題になった。
 「僕はどもるし、そのことで悩んだことはあったかもしれないが、吃音者とレッテルを貼られるのは…、僕は小説家だ」
 自分のことが吃音者のグループで話題になっていることに、当の大江さんは苦笑いをされることだろう。
 大江さんがどもるということを知っている私たちは、吃音者の先輩としてだけでなく、さらに平和や障害者問題に対する発言に共感をし、尊敬と親しみを抱いていた。そこで、不躾にも、言友会創立25周年の記念大会に記念講演をお願いした。
 「せっかくですが、私は吃音に関して何も話すものは持っていません…」と、その時丁寧な断りのおハガキをいただいた。吃音ではなく、核の問題、障害者問題について話して欲しいとお願いしたら、来て下さったかもしれない。
 私たちはいろいろなメディアを通して他人の人生を知ることができる。どもったことがある、あるいは自らどもる人間だと名乗る方々にお手紙をさしあげたり、講演をお願いしたりする場合がある。その時のその人の対応は様々で、興味深い。どもるということをむしろ誇りにし、私たちの働きかけに応じて下さる方もいるが、「かってどもった経験はあるが、私は吃音者ではない」と、私たちからの仲間扱いに不愉快さを率直に表明される方もいた。
 大江さんは、『個人的な体験』にみられるように自己受容の人である。吃音を否定されている人ではない。むしろ吃音の受容が大江さんのことばにある《仮の受容》の役割をし、ご子息、光さんの誕生から子育ての過程の《本当の受容》に至ったのではないかと推察することも可能だ。
 吃音に悩み、吃音に大きく人生を左右されている人にとっては、《吃音者》としての自覚が必要な時期はあるが、吃音に影響されずに生きている人にとっては、《吃音者》のレッテルは不本意ではないだろうか。また、《吃音者》のことばには、吃音を過剰に取り込みすぎている感じがしないではない。
 大江健三郎さんのノーベル賞受賞の日、大江さんからのハガキを思い出し、『吃音者宣言』の起草者でありながら、《吃音者》ということばについて改めていろいろ考えてみた。(了)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/10/27