唯一無二、自由な人間落語家、柳家小三治さん逝く
「ワーケーション」という恰好の理由付けができたおかげで、今、南伊豆から熱海、小田原への旅の途中です。その旅の途中で、大好きな落語家、柳家小三治さんが亡くなったとの残念な知らせが、ネット速報で飛び込んできました。びっくりすると共に、大きな寂しさが広がってきました。
2021年5月12日(水)、毎年出かけていた、京都のロームシアターでの、「柳家小三治 柳家三三の親子会」が中止になりました。また機会があるし、東京へ行けばまた聞けると疑いもなく思っていただけに、もう聞けなくなるかと思うと、とても寂しいです。とぼけたような、飄々とした味わいが好きでした。年のせいかどうかは分かりませんが、言おうとしてもなかなかことばが出ないときが時々ありました。しばらく間があって、まあいいやというような感じで、別の話題に違和感なく移っていきます。絶妙のタイミングでした。「まくらの小三治」とも呼ばれるくらい、まくらが長く、おもしろく、まくらを聞くだけでも満足してしまうくらいでした。
2017年だったか、頸椎の手術を受けて復帰した直後の京都での親子会が一番印象に残っています。「まくら」というよりは手術からの生還がうれしかったのか、病気の近況報告のように、病気について、担当の医師について、話が進んで1時間以上楽しそうに話していました。笑わせようというような風情は全くなく、今思いついたことを自然のままに客に向かって語りかける。それに耳を傾けていると幸せな気分になるのが不思議です。時々、「クスッ」と笑ってしまいます。僕などは、本題の演目はいいから、このままこの話を続けて欲しいとよく思ったものです。笑わせようとしない、自然な噺が楽しく、僕の大好きな落語家のひとりでした
小三治さんとの出会いは、1991年8月にさかのぼります。岩手県盛岡市で、NPO法人全国ことばを育む会の全国大会が行われました。そのときの記念講演が柳家小三治さんでした。僕も吃音の分科会の講師だったかどうかは忘れましたが、招待を受けて参加していました。そのとき、初めて、生で小三治さんの話を聞きました。父親が学校の校長先生だったこともあって、教育に一家言のある人でした。そのときの話はもちろん落語ではありませんでしたが、興味をもって聞いていたことだけは覚えています。
その後、小三治さんの活躍の場は東京が中心なので、関西に来られることはほとんどありませんでした。そのため、東京へ行ったときには必ず行く、鈴本演芸場で聞く程度でした。そして、関西でも独演会をするようになって、聞きに行くようになりました。
亡くなられたとのニュースが流れると、いろいろなエピソードが伝えられてきます。いくつか紹介します。
小三治さんの落語は、CDがありますし、You Tubeでも見ることができますが、寄席や落語会で、表情やからだの動きを見ながら聞くのとは全く違います。客を見ているのか見ていないのか、雰囲気を感じ取っているのかどうか分かりませんが、演じているのではなく、僕たちと直接対話をしているような感じです。そんなところが、僕はたまらなく好きでした。直接出会えなくなったのが、本当にさみしいです。
「長屋の花見」「死神」「千早ふる」「小言念仏」「初天神」など、直接、高座で聞くことができたことは、幸せなことだったと思います。我が家では「小言念仏」を時々口にして、遊んでいます。話している時のイメージが残っているのはありがたいことです。
ところで、小三治さんが思いがけずに突然81歳でなくなったことで、旅の途中の感傷もあるのでしょうか、77歳半ばの僕の人生を振り返っていました。
僕の一番好きな宗教者、浄土宗の開祖・法然は79歳、仏陀も79歳だと言われています。デビュー作「電光石火の空手」から大好きで、ほとんどすべての作品を見ている高倉健さんは83歳。僕の「からだとことばのレッスン」の師匠竹内敏晴さんは83歳でした。それらの年に近づいた今、とても感慨深いものがあります。
特に竹内敏晴さんは、6月の初めに「伊藤さん、がんになったよ」と電話で知らせていただき、7月には吃音親子サマーキャンプの劇のシナリオを書いて、2日間の演出指導をし、僕が主催していた「竹内敏晴・大阪レッスン」もいつもと変わらずにして下さったにもかかわらず、9月に亡くなったので、あまりの早さに気持ちがついていきませんでした。
僕の年を考えると、今、とても元気ですが、死を意識しない訳にはいきません。63歳で、金沢の繁華街・香林坊の路地裏で「野垂れ死にする」とのイメージを持ち続けてきた僕としては、随分長く生きたと思いますし、たくさんの人との出会いのおかげで、自分の能力をはるかに超えてできたことは数多くあります。あまりにも、ラッキーな人生で、これもすべて吃音のおかげだと、本当に吃音に感謝しているのです。
そろそろ、終活に入りますが、世間一般の終活とは全く違います。
ひとつは、無類のグルメでもあるので、糖尿病のために諦めて節制していた食事を解禁することにしました。果物大好き人間が、これまでほとんど果物を食べなかったのですが、その制限を全面解除しました。
もうひとつは、旅です。僕は、無類の旅好きです。吃音の悩みが深かった思春期から青年期、勉強はまったくせずに、群れて遊ぶことが全くなかった僕は、中学生の頃から、自転車でよく遠くに出かけていました。大学受験に2度失敗し、新聞配達に住み込んでの二浪生活に選んだのは大阪でした。三重県の田舎から出ることの不安より、安堵感、喜びが大きかったように思います。父親の旅好きもおそらく影響しています。収集していた記念切手に旅先のスタンプがよく押されていました。大学4年生の時に3か月、手元にあった8万円で、日本一周の一人旅をしました。北海道利尻・礼文島から、当時最南端の与論島まで行きました。その無類の旅好き人間が、コロナ禍であっても、自粛するはずもありません。同調圧力には意地でも屈したくない少数派人間なので、感染には細心の注意を払いながら、通常以上に短期、長期の旅を続けています。例年ならある、滋賀、静岡、岡山、島根、沖縄、群馬、千葉の吃音キャンプや、研修会や講演会などが、コロナ禍で中止になったために、スケジュールがあいたからです。
日本全国ほとんど行ったと言えるくらい旅をしていますが、車を運転できる元気なうちに、まだ行っていないところ、行きたいところを、「ワーケーション」の波にのり、旅を続けます。昨日は、Zoomによる吃音研修会のオンラインテストのある日でしたが、旅先のホテルで完璧に行うことができました。パソコンさえあれば、どこでも仕事ができるのだと、本当に実感できた日でした。
したいことをする。食べたいものを食べる。会いたい人に会う。したいことへの一切の規制を取り払うのが、僕の終活です。吃音についてまだ3冊の本を出したいので、それは頭の中に置きながら、人生最後の「旅の途中」を続けたい。柳家小三治さんが亡くなったことで、改めて、「僕の終活」を確認しました。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/10/13
「ワーケーション」という恰好の理由付けができたおかげで、今、南伊豆から熱海、小田原への旅の途中です。その旅の途中で、大好きな落語家、柳家小三治さんが亡くなったとの残念な知らせが、ネット速報で飛び込んできました。びっくりすると共に、大きな寂しさが広がってきました。
2021年5月12日(水)、毎年出かけていた、京都のロームシアターでの、「柳家小三治 柳家三三の親子会」が中止になりました。また機会があるし、東京へ行けばまた聞けると疑いもなく思っていただけに、もう聞けなくなるかと思うと、とても寂しいです。とぼけたような、飄々とした味わいが好きでした。年のせいかどうかは分かりませんが、言おうとしてもなかなかことばが出ないときが時々ありました。しばらく間があって、まあいいやというような感じで、別の話題に違和感なく移っていきます。絶妙のタイミングでした。「まくらの小三治」とも呼ばれるくらい、まくらが長く、おもしろく、まくらを聞くだけでも満足してしまうくらいでした。
2017年だったか、頸椎の手術を受けて復帰した直後の京都での親子会が一番印象に残っています。「まくら」というよりは手術からの生還がうれしかったのか、病気の近況報告のように、病気について、担当の医師について、話が進んで1時間以上楽しそうに話していました。笑わせようというような風情は全くなく、今思いついたことを自然のままに客に向かって語りかける。それに耳を傾けていると幸せな気分になるのが不思議です。時々、「クスッ」と笑ってしまいます。僕などは、本題の演目はいいから、このままこの話を続けて欲しいとよく思ったものです。笑わせようとしない、自然な噺が楽しく、僕の大好きな落語家のひとりでした
小三治さんとの出会いは、1991年8月にさかのぼります。岩手県盛岡市で、NPO法人全国ことばを育む会の全国大会が行われました。そのときの記念講演が柳家小三治さんでした。僕も吃音の分科会の講師だったかどうかは忘れましたが、招待を受けて参加していました。そのとき、初めて、生で小三治さんの話を聞きました。父親が学校の校長先生だったこともあって、教育に一家言のある人でした。そのときの話はもちろん落語ではありませんでしたが、興味をもって聞いていたことだけは覚えています。
その後、小三治さんの活躍の場は東京が中心なので、関西に来られることはほとんどありませんでした。そのため、東京へ行ったときには必ず行く、鈴本演芸場で聞く程度でした。そして、関西でも独演会をするようになって、聞きに行くようになりました。
亡くなられたとのニュースが流れると、いろいろなエピソードが伝えられてきます。いくつか紹介します。
「人間の生きる永遠のテーマってのをきちっと押さえてますから落語ってね。人間として生きることが、一番大切で素敵なんだ」
「年を重ねてボケた感じになっていくことすら、当人は自然に楽しんでいる感じでした。落語って、ヘタだけどそれがなんだかおかしい、みたいなのが魅力なんです。マクラしかやらずに帰っちゃったりする小三治は、まともになるのはつまらないことだと、人生をもって示してくれていたような気がします」
小三治さんの落語は、CDがありますし、You Tubeでも見ることができますが、寄席や落語会で、表情やからだの動きを見ながら聞くのとは全く違います。客を見ているのか見ていないのか、雰囲気を感じ取っているのかどうか分かりませんが、演じているのではなく、僕たちと直接対話をしているような感じです。そんなところが、僕はたまらなく好きでした。直接出会えなくなったのが、本当にさみしいです。
「長屋の花見」「死神」「千早ふる」「小言念仏」「初天神」など、直接、高座で聞くことができたことは、幸せなことだったと思います。我が家では「小言念仏」を時々口にして、遊んでいます。話している時のイメージが残っているのはありがたいことです。
ところで、小三治さんが思いがけずに突然81歳でなくなったことで、旅の途中の感傷もあるのでしょうか、77歳半ばの僕の人生を振り返っていました。
僕の一番好きな宗教者、浄土宗の開祖・法然は79歳、仏陀も79歳だと言われています。デビュー作「電光石火の空手」から大好きで、ほとんどすべての作品を見ている高倉健さんは83歳。僕の「からだとことばのレッスン」の師匠竹内敏晴さんは83歳でした。それらの年に近づいた今、とても感慨深いものがあります。
特に竹内敏晴さんは、6月の初めに「伊藤さん、がんになったよ」と電話で知らせていただき、7月には吃音親子サマーキャンプの劇のシナリオを書いて、2日間の演出指導をし、僕が主催していた「竹内敏晴・大阪レッスン」もいつもと変わらずにして下さったにもかかわらず、9月に亡くなったので、あまりの早さに気持ちがついていきませんでした。
僕の年を考えると、今、とても元気ですが、死を意識しない訳にはいきません。63歳で、金沢の繁華街・香林坊の路地裏で「野垂れ死にする」とのイメージを持ち続けてきた僕としては、随分長く生きたと思いますし、たくさんの人との出会いのおかげで、自分の能力をはるかに超えてできたことは数多くあります。あまりにも、ラッキーな人生で、これもすべて吃音のおかげだと、本当に吃音に感謝しているのです。
そろそろ、終活に入りますが、世間一般の終活とは全く違います。
ひとつは、無類のグルメでもあるので、糖尿病のために諦めて節制していた食事を解禁することにしました。果物大好き人間が、これまでほとんど果物を食べなかったのですが、その制限を全面解除しました。
もうひとつは、旅です。僕は、無類の旅好きです。吃音の悩みが深かった思春期から青年期、勉強はまったくせずに、群れて遊ぶことが全くなかった僕は、中学生の頃から、自転車でよく遠くに出かけていました。大学受験に2度失敗し、新聞配達に住み込んでの二浪生活に選んだのは大阪でした。三重県の田舎から出ることの不安より、安堵感、喜びが大きかったように思います。父親の旅好きもおそらく影響しています。収集していた記念切手に旅先のスタンプがよく押されていました。大学4年生の時に3か月、手元にあった8万円で、日本一周の一人旅をしました。北海道利尻・礼文島から、当時最南端の与論島まで行きました。その無類の旅好き人間が、コロナ禍であっても、自粛するはずもありません。同調圧力には意地でも屈したくない少数派人間なので、感染には細心の注意を払いながら、通常以上に短期、長期の旅を続けています。例年ならある、滋賀、静岡、岡山、島根、沖縄、群馬、千葉の吃音キャンプや、研修会や講演会などが、コロナ禍で中止になったために、スケジュールがあいたからです。
日本全国ほとんど行ったと言えるくらい旅をしていますが、車を運転できる元気なうちに、まだ行っていないところ、行きたいところを、「ワーケーション」の波にのり、旅を続けます。昨日は、Zoomによる吃音研修会のオンラインテストのある日でしたが、旅先のホテルで完璧に行うことができました。パソコンさえあれば、どこでも仕事ができるのだと、本当に実感できた日でした。
したいことをする。食べたいものを食べる。会いたい人に会う。したいことへの一切の規制を取り払うのが、僕の終活です。吃音についてまだ3冊の本を出したいので、それは頭の中に置きながら、人生最後の「旅の途中」を続けたい。柳家小三治さんが亡くなったことで、改めて、「僕の終活」を確認しました。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/10/13