セルフヘルプグループは、傷のなめ合いの場かの論争は、昔からあります。ほっとできる場でありたい、しかし、それだけでは物足りない。学びの場であり、新しい価値観に出会う場であり、情報発信の場でありたいと思って、大阪吃音教室は活動を続けています。紹介している報告のように活発に話し合いが進んでいくのを読むと、早く、大阪吃音教室を再開したいなあとつくづく思います。
 1997年6月の日曜特別例会の報告の続きです。

参加者 大阪吃音教室は、週に1回だけど、ここにくるとほっとする。生まれ故郷に帰ったような、家に帰った以上の安心感がある。毎日の仕事では教師だから喋ることが多いが、教壇以外ではなるべく喋らないように、ポロを出さないようにこころがけている。それでもつまってしまうので、なんとかして治したかった。それで去年の暮れ、大阪吃音教室を休んで、民間吃音矯正所、催眠療法など他の方法を模索して取り組んできたけれど、全く効果がなく、いい方法はないとの結論に達した。まったく進歩がなく、お金もかかるので途中でやめました。
 大阪吃音教室のみんなの中では安心して話せるが、このように普通の場面でも話したい。ことばが不適切で批判的になるかもしれないが、ここに来て最初の頃、お互いの傷をなめ合っているとの印象を持った。僕の中に治したいという気持ちが強いから、どうしてもそういう気持ちになるのかもしれないけれど。

参加者 どういうところで、傷をなめ合うという感じを持たれたのですか。

参加者 ほっとするだけで、それで終わって、それから進んでいない感じがした。よく参加されているのに、吃音症状面で進歩されていないと思った。だから、治らない人が、そのことをお互いになぐさめ合っていると感じた。参加人数も一定で、大きく増えないのは、吃音を治すための例会ではないからだと思ったんです。

参加者 言友会以外で治療を受けてうまくいかず、再度大阪吃音教室に参加するようになったのですが、以前よりどもることへの許容範囲が広くなった、顔の雰囲気が随分柔らかくなったなど、具体的な進歩の現れが私たちには見えるのですが、それは、あなたにとっては、進歩ではないのですか。どもらずに流暢に喋らないと進歩ではないのですか。

参加者 進歩があるなしは吃音の症状面だけだと、私は、そういうことだけを見てしまっているから。そういう見方から脱却しないといけないと思うんですけどね。

伊藤 僕も、随分変わってきたなあ、うれしいなあと思うんです。《傷のなめ合い》をしていないのが僕たちだと思ってきたから、そう思われたのを不思議な思いで聞いていました。どもる人もどもらない人も、初めて参加した人のほとんどが、予想していた印象と全然違って、明るく楽しそうだと言って、《傷のなめ合い》との印象をもつ人はほとんどいなかった。なぜあなたがそう思ったかを検討していくことが、僕たちにもあなたにも必要かもしれない。

参加者 「現実の職場は厳しく、その世界で生きていくために、例会の場でも、その雰囲気でもっと厳しくしなければいけない。こんな例会のような、ぬるま湯につかっていたらだめや」と言った人がいた。どもった人に対して、「どもったらだめだ」と厳しく指摘し、お互いにどもらずに話すために切磋琢磨をするようなピーンとはりつめた雰囲気でないとだめだと言うんです。その人は《ぬるま湯》ということばを使った。その人にとっては、どもりは劣ったことで、どもっている人は普通のレベルに達していない人間。だから普通のレベルに引き上げるために、それだけの厳しさで互いに刺激を与え、訓練をしないと進歩が見られないということだった。決してどもることを受け入れたくなかったのでしょうね。何年か前参加した人で、銀行員でしたけど。

参加者 刺激を与え合ってという言うけれど、それで治るんですか。

参加者 その人のことはよく覚えているけれど、この場ではどもらんかったですよ。この大阪吃音教室の例会の中で、上司と部下という設定をして、バンバン喋る練習をやらなきゃだめだ、そういう練習が必要やと言っていた。

参加者 その人は、大阪吃音教室のような場面で喋れても、職場や緊張する場面では、よくどもる人なんやろね、きっと。

参加者 いや、それはよく分からない。進歩がないという発想はその人と近いと思った。さきほどの《傷をなめ合う》は、彼が言っていた《ぬるま湯》につかっていたらあかん、みたいな発想じゃないかな。

参加者 僕は、そういう人こそ《吃音受容》というか、《自己受容》をしてほしい。確かに僕も自分がどもることが欠点だと思うし、治したいと思いますけど、治らないならどうしようもない。最近は自分がどもっているのがいとおしく思うようになった。自分の欠点を自分で認めるというか、いつまでもそれにこだわって引きずっていては、やっぱり僕は不幸だと思うし、しんどい。受容すると、その人も楽やし、世界も広がっていく。

伊藤 《傷のなめ合い》とは思わないけれど、この場に来ると、僕もほっとしますよ。それがなければセルフヘルプグループの意味がないと思うくらいに大事なことだと思う。世間の緊張をここへ導入し、緊張の中でも喋れるように訓練するところだったら、僕は来ない。グループに競争の原理を持ってきたくない。

参加者 ちょうど1か月くらい前の例会で1分間スピーチがあったでしょう。そのとき、どもりが治る夢を見て、自分のどもりを馬鹿にする人たちを見返してやりたいというようなスピーチをされたと思うのですが。これまで、そんなふうにどもりのことを笑ったり馬鹿にする人が多かったということですか。

参加者 それはありますね。直接言われることはそんなにないんですけど。

参加者 こちらが思うほど、相手は気にしていな場合がたくさんあると思うんですけどね。

参加者 そうですね。それは僕も感じるんです。

参加者 ことばのつっかえよりも、相手の人間やと思うんです、好きとか嫌いとかは。どもるということを気にしていたら、相手とつき合うときに、自分がどもることを相手に知られたくないとか、それをまず第一に考えて、ちょっとどもったときに、相手がどんな反応を示すかが気になって、大事な部分が抜けてしまう。どもることにとても神経質になっているが、周囲はあんまり気にしていない。私たちだって、吃音以外の障害についてそんなに気にしない。つきあいたいなあと思うとき、障害を持っているから嫌とか思わないでしょ。気にしていたら、本当の自分が出せないし、本当の意味で人とつき合うこともできないなあと感じる。

伊藤 あなたにとって辛いのは、小さいときから、吃音の父親から、「どもりを治せ」と、かなりどもりに対する否定的なメッセージをもらっているんですよね。友だちからからかわれたことよりも親から否定されたことの方が、あなたの治ることへの執着になっているのではないかな。子ども時代に戻れないから、父や母に代わるものを早く自分なりにみつけて、「父はあのように言ったけれど、それは済んだことだ。今は教師になって多くの子どもの教育にあたっている。自分が自分で父親になって、内なる父親を育てていかないと、なかなかどもりに対する否定的な感情は薄まらないかもしれませんね。子どもの頃に、それも親から刷り込まれたというのはきつい。小さい頃から母親から「どもっていたらあかん」と言われ、否定されて、どもっていたら一人前じゃないと言われてきた人がいました。これはきついよね。それを回復するには、これまでと同じようなことをやっていてはだめで、今もっている基本的な吃音に対する不信感を、基本的な信頼感にしていくためには、どもりを治す方法では解決できない。全く違う方法で、かなり取り組まないと、子どもの頃に刷り込まれたものは拭いされない。再び大阪吃音教室に戻ってきたのだから、できるだけいろんな行事には参加して、これまでとは違う感情とか意見とか考えとかをシャワーのように浴びることが必要なんじゃないでしょうか。
 教師であればどもっていてはいけないと思っておられますか。

参加者 教師という仕事がいくらかは影響していると思います。個人個人、顔も性格も全部違うように差があるとは思うんですよね。その差を認めながら、吃音があるということを認めてくれながら、一生懸命がんばれたら、いいんですけど。そういうのがなかなか現実では、周りがその差を認めてくれないというのがありますよね。自分自身は、そういうお互いの差は受け入れるという気持ちは十分あるんです。あると思うんです。

伊藤 きついようだけど、ないんじゃないですか。今ここに、2人の中学校の教師がいますが、僕は吃音を否定しているあなたの生徒になりたくない。欠点も受け入れてくれるもうひとりの生徒になりたい。だって、自分の欠点を嫌だ嫌だと思って受け入れられない人は、他人の欠点に対する許容度は狭いですよ。成績の悪さ、家庭の事情など、子どもはそれぞれ違います。従順に先生の言うことを聞く子どもは好きで、そうでない子は嫌だということになりますよ。自分の尺度をがんと持っているのだから。
 僕は毎年、石川県の教育センターで、初任者研修に講師として行きます。その年に採用された県下の小学校から高校の教師が全部集まる教員研修で、必ず言うことがあるんです。それは、自分の欠点や自分の弱さ、自分の子どもの頃のしょうもなさ、自分の嫌だと思っていることを、自分のことばで自分の声で生徒たちに、オープンにできる教師になって欲しい。そうすれば、子どもたちも自分の悩みとか自分がつまづいたりしたことを相談しにくるだろうし、そこで本当の人間関係ができるだろう、と。
 先だって、九州の河合塾が毎年開いている教育講演会で講演をしたときに、非常に重い課題をもっている予備校生徒が後で何人も質問相談に来ました。単に1時間半講演した講師に相談に来る。それは僕が自分の吃音をオープンにして、自分は吃音とどうつき合って生きてきたかという話をし、そこに触れたからでしょう。誰にも話したことのないことを話しに来ました。僕はてんかんで、薬で生きてきたけれど、伊藤さんの話を聞いてもう薬やめようと思うとか、兄弟の難聴のことについて罪の意識をもって悩んでいるとか。その彼から後になって、相談の手紙もきています。
 教師のあなたが、どもりに悩んでいることなどをオープンにしていけば、蔑んだりするのでなく、生徒に絶対人気が出ると思う。私立学校だから、競争が激しいから弱みをみせられないとよく言いますが、それは、思い込みではないでしょうか。教師にとって、どもりは、適度な欠点のように僕は思うけど、だめですかね。もっともっと重度な障害だったら、なかなか子どもたちも分かりにくいですけど、どもりだと子どもたちも想像がついて分かりやすい。
 今、問題になっている受け入れるか、治療かという議論が、そもそもおかしい。この議論が成り立つには《治療の技術》がなければならない。実際に治療技術などないのに、《流暢に話す技術》か《受容》かなんて問題の立て方自体がおかしい。《吃音受容》は実際できるし、あるわけで、その実際あるものと、吃音治療の技術のように実際には無いものを比較してどちらをとるかは議論にならない。確実に吃音が治せるようになって、80%以上治せる時代がきて初めて、あなたは《治療》をとりますか、《受容》そのままでいきますかという議論が成り立つ。
 現実は、好むと好まざるに関わらず、吃音を受け入れて生きるしか、しようがない。大阪吃音教室にせっかく出会いながら、やっぱり治す方法はあると信じて30万円以上使って行ったけれど、やっぱりだめだったという人がいました。どもりは、自分なりの工夫で変化して、前よりは話せるようにはなるけれど、本来他人がそれを教えることはできないというのが基本です。スキャットマン・ジョンもそうだけど、自己受容の道を歩み始めたことで、どもる状態も変化したといいます。どもりを否定したまま消えていくのを願うのは不可能なこと。不可能なことに挑戦するのはやめようと僕らは思うんです。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/30