吃音受容と、楽にしゃべる工夫は矛盾しないと、僕は思うのですが、話は続きます。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/27
伊藤 受容と治療技術を二つに分ける、二分法的な考えはあかんと言って来たし、書いてもきた。ヴァン・ライパーが亡くなった時の特集でも、「吃音を受け入れるだけでは十分ではない」というヴァン・ライパーの話を紹介している。吃音受容と、楽に喋る工夫は矛盾しない。
佐藤 あんまりそのようなことばは聞いたことがなかったですね、僕の記憶では。今回の文章の中では、どっちかといったら、受容ばかり言っている気がする。
伊藤 佐藤さんとのつきあいはあまりないでしょう。吃音親子サマーキャンプに来てないし、吃音ショートコースもほとんど参加していない。そりゃ、聞いたことがないのは当たり前のことですよ。金曜日の大阪吃音教室にちょこっと参加しても、僕たちの考えのごく一部分を知ることでしかない。吃音親子サマーキャンプで子どもたちがどんなことを話し合い、演劇を通して自分のことばや表現にどれだけ真剣に向き合っているか、知らないでしょう。昨年、1996年の第1回の吃音ショートコースで、吃音受容について3時間ディスカッションしているけれど、その時も佐藤さんはいなかった。大阪吃音教室に、2回や3回参加した例会の発言で、僕たちの主張をこう受け取ったというのではね。
参加者 流暢に話す技術は、発声練習とか、いろんなことがありますけれど、吃音受容ということは、精神的なものがついてきますので、なかなか難しい。
伊藤 そうなんです、難しいです。だから、どもりを治す側、僕たちを批判する側は、具体的に吃音受容をどう教えるか、具体的に提示しろと言います。吃音受容の立場に立っての話す技術を具体的にどう教えるかを示せと言われる。吃音を受け入れること、自己を受け入れることがいかに難しいかを自分の経験を通して知っています。だから、僕らは意識的に、吃音を受け入れることに取り組まなければならないと思うんです。
神戸の中学生の男子が殺人を犯した事件がありましたね。新聞報道によると、アイデンティティの問題があると言われています。自分が自分であることがつかめない。自分が自分を受容できない、自分の存在感がない、そういうことでずっと悩んでいたところへ、友達とけんかをしたときに、暴力を振るってしまい、「おまえみたいな奴は、もう卒業するまで学校に来るな」と教師に言われたと書かれています。
自己を受け入れられないことの辛さ、難しさ。先だって、僕は、大学受験のための予備校「河合塾」の教育講演で話をしました。話を聞いてくれた予備校生から、何通か質問の手紙がきました。その人たちは、「伊藤さんが言うように、僕も自分さがしの旅をしています」と書いてきました。自分を受け入れることはとても難しいことです。
吃音に悩んでいるときには吃音が全てと思ってしまう。自分にはほかにもいっぱい良いところも悪いところもあるのに、他のことは考えられない。吃音に悩んでいる人にとっては、一番の関心である吃音を受け入れることが難しい。これまで、そこの研究が全くなされていなくて、全然お金を使ってこなかった。日本だけでなく、世界各国でも同じです。吃音受容をテーマに研究しようなんてゼロです。ところが、流暢に話すために技術を身につけようとか治療は、放っておいても研究、実践がされています。成果が上がる上がらないにかかわらず、です。だから、スキャットマン・ジョンと、その方向の研究や実践をしようと考えたんです。
佐藤 具体的な方法論としては、例えば、どうもいうのがありますか。僕もやっぱり吃音受容をしたいと思うんですけど、具体的に何をやったらいいのか。今までやったことといったら、どもっててもやるべきことから逃げない、ぐらいで、他にどう積極的に何かをやったらいいかなというのが、今いち分かりません。
参加者 具体的な日常生活の場面場面で、その人がどういうふうに自分の吃音の対処の仕方をとらえていくのかにかかわってくると思う。だから人によって受容の受け取り方というのは随分違うんじゃないかなあと思ったりする。佐藤さんも、佐藤さんなりの吃音受容の考え方があるんやなあと感じた。どんな場面でも、どんなときでも、どもりをそのままにして喋ったらいいというのが受容だとは僕は考えていないんです。それぞれどういうことが受容だと考えているのか、そういうことを知りたい。
僕は、仕事場で、人前でスピーチをしたり司会をしたり発言をしたりする機会がだんだん増えてきました。僕は、やっぱりどもったら恥ずかしいと思います。これは、正直な気持ちです。どうしようかな、手を挙げようかなと迷いもします。思い切って手を挙げて発言するときに、どもらないようにと、気持ちとしては働いていますよ。できたらどもりたくないなあと思うし。今までの経験から、僕が身につけた話し方で、できるだけどもらないようにうまく話すようにはしています。
ただ、僕が20数年くらい前に、どもりを治したい、隠したい、なんとかしたいと思っていた頃と違うのは、僕がそこでうまく喋りたいなあと思いながらも、仮に、ことばが出なかったり、立ち往生したりとなっても、大丈夫だと思っていることです。最悪、声が出なかったら「すんません。ことばが出ません」と言って座ることはできるやろなと思っています。
どもったまま話をすることがいつでもどこでも平気になるということではない。恥ずかしいし、できたらうまく喋りたいと思うし、僕はそんな気持ちを持ってても当たり前やと思っています。だから吃音受容についてもっと具体的なところで話をして、どんなことが吃音受容なのか、自分を受け入れることなのかということを話したい。でないと、単にどもりは恥ずかしいから、治したいからやっぱり流暢に話す技術が大事なのだということになってしまう。そうではなくて、しっかり話をしなくてはならないと思う。
伊藤 なるほど。よく分かる。吃音容についてずっと言ってきた僕ですら、未だに逃げてるし、どもりたくない部分では喋りません。しかし、そのときの自分なりの尺度があって、どうしても言いたい、言わなければならないことであれば、僕はたとえひどくどもってでも言います。それで、どもって後で嫌な思いをすることはあっても、長く続くことはない。「わあ、今日は失敗したな、えらいどもったな」という程度です。今でも寿司屋で「とろ」が言えない。だから、「とろ」は食べない。カレー屋のタゴールをやっているときに、中央市場に仕入れに行くでしょう。じゃがいもを買うのに、「じゃ」が出ない。八百屋のおっさんの前でどもってどもってどもりまくって嫌な思いをしなくてもいいやと思うから、「これ」と指さして済ませているし、済ませた自分に対して、言いたいことを言わずに逃げたなあとは全然思わない。「あなたのことが好きだ」とか、自分の本当に言いたいこと、特にベーシック・エンカウンターグループのときなんか、本当に何かを伝えたいときはすごくどもるけれども、それは僕の内から出てくる大事なことばだから、これはどもろうがどもるまいが喋ります。恥ずかしさとか、恥じらいとかは持ってていいと思う。
「いつでも、どこでも、平気で堂々とどもる」ことを吃音受容と考えると、あまりにもハードルは高く、無理です。佐藤さんのいう「どもっててもやるべきことから逃げない」で十分で、他に何かあると思うから、受容が難しくなるんじゃないかな。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/27