1997年6月の大阪吃音教室の日曜特別例会の前回の報告の続きです。
よくここまで、丁寧に報告をしているものだと感心します。大阪吃音教室の例会報告に、とても力を入れていたのだということが分かります。
当時、僕は「吃音受容」「自己受容」ということばをあまり違和感なく使っていましたが、今では使わなくなっています。どうしても、周りからの、「自己受容すべき」「吃音を受け入れるべき」の圧力を感じ取るからです。現に、「僕たちはこう生きます」と言っているに過ぎないものを、僕たちが圧力をかけていると誤解されるからです。
僕たちは、吃音は原因もわからず、治療法もなく、これまで僕を含めて、大勢の人たちが「吃音と闘う」ことで、自分も傷つき、自分の人生を生ききれなかった経験をもっています。
「吃音は治らないんだから、仕方がない。認めるしかないやろ」
「どもるからと言って、話すことから逃げないで、自分のしたいこと、しなければならないことに誠実に向き合い、取り組んでいこう」
この程度のこととして考えています。受け入れる、認めたとしても、時には落ち込み、時には治したいと思うこともある。でも、また、気を取り直してがんばる。浮いたり沈んだりを繰り返しながら、それでも、自分の人生を吃音のためにあきらめることはしないという一本の道筋に立ちたいと思うのです。前回の続きの対話です。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/26
よくここまで、丁寧に報告をしているものだと感心します。大阪吃音教室の例会報告に、とても力を入れていたのだということが分かります。
当時、僕は「吃音受容」「自己受容」ということばをあまり違和感なく使っていましたが、今では使わなくなっています。どうしても、周りからの、「自己受容すべき」「吃音を受け入れるべき」の圧力を感じ取るからです。現に、「僕たちはこう生きます」と言っているに過ぎないものを、僕たちが圧力をかけていると誤解されるからです。
僕たちは、吃音は原因もわからず、治療法もなく、これまで僕を含めて、大勢の人たちが「吃音と闘う」ことで、自分も傷つき、自分の人生を生ききれなかった経験をもっています。
「吃音は治らないんだから、仕方がない。認めるしかないやろ」
「どもるからと言って、話すことから逃げないで、自分のしたいこと、しなければならないことに誠実に向き合い、取り組んでいこう」
この程度のこととして考えています。受け入れる、認めたとしても、時には落ち込み、時には治したいと思うこともある。でも、また、気を取り直してがんばる。浮いたり沈んだりを繰り返しながら、それでも、自分の人生を吃音のためにあきらめることはしないという一本の道筋に立ちたいと思うのです。前回の続きの対話です。
参加者 個人によってどもる状態が違うので、考え方が皆少しは違ってくるんじゃないかなと思います。私の場合は、受容さえできれば普段の生活ではあまりどもらずに生活できているのだから、吃音治療しなくても、なんとかなる。受容ができずに困っているというのが現実です。個人差がとてもあると思いました。
参加者 受容というのは、当然、治療技術よりも先にあるべきだと思います。大阪吃音教室の人たちの話を聞くと、ほとんどすべての人が、最初に治すこと、改善することをあきらめることから出発しています。まず自己否定が問題です。吃音教室に出会うまでは、「吃音は憎むべき障害で、自分の人生はあきらめて、生きていくしかない」という「自己否定の受容」のようだったと言っています。
話す技術は、決して否定はされないと思いますが、さっきの伊藤さんと佐藤さんのやりとりを聞いていると、言葉の定義みたいなことになっていた。どもらずに流暢に話すという考えよりも、楽にどもるための技術的な方法をみたらいいと思うのです。
伊藤 一般的な流れとしては、流暢に話すというのは、どもりを治すことでしょう。しかし、技術の中には、流暢にどもるというのもある。アメリカでは、《流暢にどもる》と、《吃音を治す=どもらずに流暢に話す》が激しく対立していました。議論の中で、統合的アプローチが出されたけれど、基本的には吃音を否定的に考えていることは、共通です。ただ、治せないから、楽にどもると言っているのです。だから、吃音をコントロールしようとすることも共通です。最近は、僕たちと同じようにどもっても話していく人も増えているというのが、どもる人の世界大会に参加しての印象です。
僕らは無条件の完全な吃音受容派です。まずは吃音を受け入れて生きるが根本にあって、その中で、楽に喋れる工夫は、個人個人が必要ならすることでしょう。自分なりの喋る工夫や、声が出にくくなったときの工夫は、僕たちの仲間はそれぞれにしていると思います。
チャールズ・ヴァン・ライパーもウェンデル・ジョンソンもそれなりに工夫してきた。ヴァン・ライパーの方法、僕が僕なりに喋れるようになった方法を、技術として、点検して、マニュアルを作って、人に教えることはできない。それにスキャットマン基金を使って、万人に当てはまる、楽に喋れる工夫を開発しようというのは不可能だと思う。僕らが繰り返し言っているのは、どもる自分をまず受容し、その上で、自分なりの喋り方を工夫しようということです。
一方、僕らは「どもりと闘うな」とも言っています。闘うのは、どもる状態だけに焦点を当てて、どもりを治そうとすることで、それはやめようという提案です。ところが、話すときの工夫や努力でしなければならないことはある。例えば、相手により伝わりやすい話し方や、表現力に対する努力はすべきだと思う。基本的には、どもりは悪い、劣ったものというのじゃなくて、受容がまず前提になければ、話すための努力は功を奏さない。
滑らかに話そうとすることばかりにこだわるのは、どもりを隠す技術を身につけるための努力でしょう。吃音受容が前提になければ、相手とのコミュニケーションをより良いものにするための工夫や努力は生きてこない、ということを僕らはいつも主張してきた。だから、1996年の日本吃音臨床研究会の年報は《からだ・ことば・こころ》の特集をし、竹内敏晴さんのレッスンを紹介してきた。受容と治療技術を全く二つに分けるという、二分法的な考えはあかんと言って来たし、書いてもきた。ヴァン・ライパーが亡くなった時の特集でも、「吃音を受け入れるだけでは十分ではない」というヴァン・ライパーの話を紹介している。
吃音受容と、楽に喋る工夫は矛盾しない。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/26