昨日のつづきです。口火を切ってくれた人とのやりとりがしばらく続きました。それを紹介しますが、読み返してみても、どうも議論がかみ合っていないと感じます。それは、僕の言う「吃音受容」に国際吃音連盟が動いていくなら、カナダは国際吃音連盟から抜けると言いだし、争いを好まない、スキャットマン・ジョンが、吃音受容のため教育プログラムを一緒につくろうと盛り上がっていたにもかかわらず、結局「吃音受容も大事だが、吃音治療の技術も大事だ」と、両方とも大事だに落ち着いてしまいました。このことから見ても、この議論は、ギクシャクするのかもしれません。
しかし、対話は何も、共通点を見つけたり、合意を目指してしているものではないので、どういう方向に話がすすんでいくのか、1997年6月29日に行われた、「流暢に話す技術か、吃音受容か」の対話にお付き合い下さい。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/25
しかし、対話は何も、共通点を見つけたり、合意を目指してしているものではないので、どういう方向に話がすすんでいくのか、1997年6月29日に行われた、「流暢に話す技術か、吃音受容か」の対話にお付き合い下さい。
伊藤 佐藤さんは、僕が、楽に喋る工夫することもよくないと言っているように感じたんだね。そう感じたのは、僕が書いている文章を読んでということ?
佐藤 スキャットマン・ジョン基金に関しての、国際吃音連盟の議論を紹介する文章を読んだら、どもっているのをそのまま受け入れるか、それとも吃音をなくして、どもらないで喋るということのふたつに分けて、楽に喋る工夫や努力はすべてだめだというふうに感じた。
伊藤 そう感じたというのが、僕はとっても不思議に思う。僕は、これまでもずっと、楽に喋る工夫がいけないなんて言っていない。現実にチャールズ・ヴァン・ライパーの特集をしたときでも、ライパーの、「どもりを受け入れるだけでは十分ではない、どもり方を変えなさい」のどもり方を変えるのは難しいかもしれないけれど、楽に声が出るようにはしたいと書いている。その中には、声が出にくい場合には、楽に声が出る工夫や努力は必要ならした方がいいとも書いている。それは、佐藤さんの言う楽に喋る工夫や努力といっていいと思うよ。
どもるどもらないに関係なく、楽に声が出るようになればいいなあと思って、僕たちは竹内敏晴さんのからだとことばのレッスンをずっと続けている。おそらく全国の吃音のセルフヘルプグループの中でも、僕たちが一番、〈ことばや声〉にこだわって、一所懸命取り組んでいると思うよ。世界的にもおそらくそうだろうと思う。それらは、結果として楽に喋ることにつながるレッスンでもある。僕たちは、ことばに関して一番取り組んでいるのに、佐藤さんがこういうことを感じるということが、僕は不思議でたまらない。
佐藤 そうですか。でも、僕には、話す技術と吃音受容をはっきりとふたつに分けているという感じがどうしてもするんです。吃音治療でどもらずに話すようになるのと、吃音を認めてそのままどもりながら喋ることを、対局においている。
伊藤 その読み取り方、感じ方が、僕には分からない。これまで僕たちが出している『スタタリング・ナウ』や大阪吃音教室の『新生』をよく読んでみたら、〈ことば〉〈発音〉〈発声〉に関しては、僕たちがすごくこだわって取り組んでいるということが分かるはずです。吃音が治らなくても、もっと楽に声が出ないか、話すことはできないか、はずっと考えています。吃音ショートコースのテーマは、「からだ・ことば・こころ」で、吃音受容と、ことばへの取り組みは矛盾しないと話し合っています。それは、1996年度の日本吃音臨床研究会の年報や、『スタタリング・ナウ』の29号でも、巻頭文のタイトル、〈矛盾〉の文章でも明確に書いています。
佐藤 それは、分かります。でも、『スタタリング・ナウ』でも、そのようなことが明確に分かる号とそうじゃないなと感じる号があるんです。チャールズ・ヴァン・ライパーの特集の号を読んでいたら、まあ、そんなに分けてないと感じるんですけど、スキャットマン・ジョンの特集の号では、それを感じたんです。そのときそのときの表現の違いというのはあると思いますけど。
伊藤 人がある主張をするときに、全部最初から最後まで説明していたらきりがない。あるところに焦点を合わせて、主張なり議論することになります。その時は、焦点をあてた部分しか書いていないけれど、そう主張するには、その人の持っている背景があるわけです。その背景は、僕が長年主張してきたことや、これまでの日本吃音臨床研究会の年報や『スタタリング・ナウ』をつぶさに読めば分かります。すべてを言っていたら、何かを強調することにはならないんです。
だから『スタタリング・ナウ』の号によってニュアンスが違うのは当然のことなのです。ただ、僕の基本に流れるものは、常に一貫しています。
佐藤 僕が二分しているように感じた号で、ちょっと思い出した号なんだけど、確か、〈患者よ、がんと闘うな〉という本を取り上げた号で、吃音と闘っても百害あって一利なしというふうに書いていたような気がするんですよ。やっぱりその印象が強くて、そのときは、なんか、二分しているような気がしましたね。
伊藤 そのときどきの発言なり、意図が何かに鮮明に焦点が合ってるから、こんなこともあるし、これも考えてなどと、全部説明していたら、主張が鮮明にはならないでしょう。
例えば大阪吃音教室は、毎週毎週やってるけれど、今日来たこの話は、次の話と違ってくるし、例会だけでの話と、吃音親子サマーキャンプや吃音ショートコースに参加したり、トータルな中で僕たちのしていることを理解しないと。ただその時の大阪吃音教室の例会だけとか、ある文章だけで判断するのは、やはりきちんととらえられないんじゃないかな。
でも、国際吃音連盟の議論の中でも明らかに、治療の技術か、受け入れるか、どちらを重点に置くかという話だから、流暢に話す技術に重点に置かず、僕たちは吃音受容に重点を置くと、明確に主張しました。
佐藤 重点ということですか。どっちかがメインで、どっちかがサブというか、どっちをメインにするかということですか。僕の考えでは、片一方なしに、もう一方は語れないというか、例えば、流暢に話す技術をするにしても、どんなときでも流暢に話すというのはやっぱり無理だと思うんですよ。実際、調子の悪いときはどもってしまう。そのときに、どうどもるのを受容できるかというのが最大のポイントになると思います。受容の方に関しても、30秒も1分もブロックしている状態をずっと続けているとやっぱり気が滅入ってきますから、それをもうちょっと楽にできたら、すっと受容できるようになるんじゃないかなと考える。そのふたつは、表裏一体のもののような気もしているんです。
伊藤 なんかふたりだけのやりとりになってしまいました。皆で話し合いたいので、今までのやりとりを聞いて、何かありましたらどうぞ。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/25