大阪吃音教室への思いを紹介してきました。大勢のどもる人が、大阪吃音教室を訪れました。吃音とともに生きる、このことを大切に、ブレずに、これからも集まりを続けていきたいと思っています。
さて、その大阪吃音教室で、特別に開かれた話し合いの記録があります。1997年6月29日に行われた、「流暢に話す技術か、吃音受容か」とのタイトルがつけられている話し合いです。参加者の声が詳細に拾われていて、読み応えのあるものになっていました。今日から何回かに分けて、紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/24
さて、その大阪吃音教室で、特別に開かれた話し合いの記録があります。1997年6月29日に行われた、「流暢に話す技術か、吃音受容か」とのタイトルがつけられている話し合いです。参加者の声が詳細に拾われていて、読み応えのあるものになっていました。今日から何回かに分けて、紹介します。
問題提起
「スタタリング・ナウ」の32号で、スキャットマン・ジョンの特集をしました。その話題が『流暢に話す技術か、吃音受容か』でした。その特集に関して、国際的にも論議になるこの問題を話し合おうということになり、日曜日の特別例会としました。
経過
スキャットマン・ジョンが、基金を創設することになり、それをどのように活用するかを、国際吃音連盟を運営する、アメリカのメル・ホフマン、ドイツのトーマス・クラール、日本の伊藤伸二の三人委員会に問い合わせてきた。言語病理学者に資金を提供して、吃音の有効な治療方法の開発をという話がすすんでいた。その議論の中で、伊藤伸二は次のように、スキャットマン・ジョンとアメリカのホフマンとドイツのトーマスに提案した。
「これまでチャールズ・ヴァン・ライパーや、ジョゼフ・G・シーアンやウェンデル・ジョンソンなど、世界のトップクラスの吃音研究者が、かなりの年月と人材と資金をかけ、命をかけて吃音に取り組んできた。自身もどもり、言語病理学者であるこの3人の巨人は、判で押したように、『そろそろどもりを治すことはあきらめよう、どもりを受け入れて生きるという覚悟を』と言っている。特にチャールズ・ヴァン・ライパーは、直接私たちと交流もあり、それを言い続けた人だった。
しかし、その本人たちは、どもる状態は軽くなり、楽に喋れるようになっている。自分自身は吃音が軽くなり楽に喋れるようになったが、臨床家としてどもる子どもやどもる人の治療にあたったときに、満足のいく結果を得ることはできなかった。
現在も完全な治療法はない。現在残っている治療法は、ゆっくり喋るということけだ。
吃音をコントロールしてゆっくり喋るか、DAF(聴覚遅延フィードバック)の機械の助けを借りてゆっくり喋るか。とにかく、ゆっくりと喋るしかないのが、吃音治療の現実といえる。いろんな治療法が開発されるたびに調べたが、インチキで、まやかしであったと、ヴァン・ライパーが言っている。吃音は、そのときに治ったと思っても再発があり、長期にわたって追跡調査をしなければその治療法がよかったかどうかは検証できない。治療法を試みて、治療されたどもる人は閉じ込められた部屋にずっといるわけではない。治療法で吃音がよくなったのか、もっと違う部分で、例えばその人の交友関係とか、人生での経験や劇的な出会いとか、そういうものが効いたのかどうかの判定が難しい。
吃音治療者に、研究者にお金を出して治療法を開発してもらうなんて、無駄金だ。人が自分の欠点、あるいは障害を、どう受け止めてどう生きていくか、どう自己を肯定して自己を受容して生きていくかは、全く研究も実践もない。スキヤットマン基金は、その方面にお金を出して研究実践すべきだ」
吃音だけの話ではなくて、障害を受け入れて生きるということは極めて難しい。人はどう自分自身が受け入れ、自己肯定の道にたどり着けるのか。それを実践してきた、セルフヘルプグループの活動を整理して、どもる人の体験を整理する必要がある。セルフヘルプグループにこそお金を使うべきだとの提案だ。
すると、スキャットマン・ジョンはすごく喜んで、最初基金を考えたときには自分なりにそういう計画を持っていたと彼は言い、そうしたいと具体的な提案をしてきた。
「流暢に話す技術をおろそかにしてはいけない、吃音を受け入れるということは大事かもしれないけれど、治療を軽視するやり方には真っ向から反対だ」
オブザーバーのカナダから意見が出されて、アメリカ、ドイツがカナダの意見に賛成で、吃音受容に資金をという伊藤伸二の提案は孤立してしまった。
話し合い
「吃音の受容も大事だけれど、治療技術をおろそかにしてはいけない」
の議論を紹介したことに対して、どう感じたかまず誰か口火を切って下さいませんか。
佐藤 私はとにかく、喋るときにもう少し楽に喋りたいという気持ちがずっとありました。ところが、『スタタリング・ナウ』の文章を読んだ時に、伊藤さんの主張は、それをするために自分なりに工夫することがあまりよくない、逆効果というふうに言っているように感じたんです。楽に喋ろうとすることも、自己受容の中のひとつの手段というか、そういうのも含めて自己受容になるんじゃないかなという気がしたんです。だから、自己受容というのは、単にそのまま、どもっている状態を受け入れるだけでなくて、ひどくどもったときにちょっと楽に喋れる方法を自分なりに考えてみて、それを実践していくことも大事なんじゃないかなと思ったんです。それと、疑問に思っていることですが、流暢に話す技術は、チャールズ・ヴァン・ライパーもよく使っているけれど、どもらない状態にするという解釈もあると思うけれど、幅を広げて、どもっていてももう少し楽にどもれる、楽などもり方、言ってみたら楽な喋り方ができるというふうまで、拡大してとらえたらいいのかなという気がしているので、ことばの定義という点で、僕はずっと分からないんですよ。
(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/8/24