2019年、第30回吃音親子サマーキャンプでは、記念のイベントとして、「吃音親子サマーキャンプの意義」についてパネルディスカッションをしました。そこでの話を踏まえ、また新たに吃音親子サマーキャンプの歴史を刻んでいこうとしていたのに、コロナウイルスのために、昨年、そして今年も中止となりました。全国から集まり、濃密な2泊3日の時間を過ごすことを大切に考えてきたので、オンラインなどで取って代われるものではなく、残念ですが、今年も寂しい「吃音の夏」を過ごすことになります。
日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」に、第3回吃音親子サマーキャンプのときの話し合いの様子が報告されています。人数は多くはなかったけれども、メンター(良き先輩)としての僕たちの成人の声、そして、この時参加した中学生・高校生・大学生たちの率直な声を紹介します。高校生の中に、現在も僕たちの吃音親子サマーキャンプの主要なスタッフとして長年関わり続けてくれている井上さんがいました。うれしいことです。
当時は吃音親子ふれあいスクールという名称でした。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/7/28
日本吃音臨床研究会のニュースレター「スタタリング・ナウ」に、第3回吃音親子サマーキャンプのときの話し合いの様子が報告されています。人数は多くはなかったけれども、メンター(良き先輩)としての僕たちの成人の声、そして、この時参加した中学生・高校生・大学生たちの率直な声を紹介します。高校生の中に、現在も僕たちの吃音親子サマーキャンプの主要なスタッフとして長年関わり続けてくれている井上さんがいました。うれしいことです。
当時は吃音親子ふれあいスクールという名称でした。
吃音親子ふれあいスクール
1992年10月10・11日、大津ユースホステルで、第3回吃音親子ふれあいスクールが開かれた。そのときの、中学校3年生から大学1年生までの比較的年齢の高い子どもたちとの話し合いの様子のほんの一部を紹介しよう。
伊藤伸二: 初めに、このふれあいスクールに参加したいと思った一番の動機を教えてほしい。
藤(高校1): どもっているのは僕だけでないことを確認したかった。僕が住んでいる所には、どもる人が誰もいないから、それとどもりを軽くできるような方法を知りたい。
伊藤: 僕は二十歳のときに、東京正生学院というどもりの矯正学校へ行った。四カ月、そこで治療、訓練を受けた。それまで僕は小さな田舎に住んでいて、周りにどもる人はほとんどいなかった。こんなにみじめな苦しい思いをしているのは僕だけで、僕が悲劇の主人公だと思っていた。それが正生学院へ行ったら、どもる人が三百人ぐらいいた。どもりは治らなかったけれど、どもりは僕一人じゃないということが分かり、親友ができたことが一番よかった。
どもりを軽くする方法については、これからみんなで話し合っていこう。
みんなが今持っているどもりのつらさとか不安とか恐れとかがあれば話してもらいたい。みんなのつらさは分かると思うし、また少し君たちの前を歩んできた者として、こんなこともあったよ、と言えると思う。
周りの目が気になる
井上(高校2): どもっているとき、周りの視線が気になる。じっとこちらを見られるのはつらい。
金光(大学1): こちらがどもったときに、目をそらされたら、嫌だ。
脇田(高校3): どもったときに、ポカーンとして見ていられると嫌。少しチラッとそらされている方がいい。
金光: 視線の問題だけではなく、どもったときに相手がなんらかの反応をするのが嫌。普通の様子で接してくれた方がよい。
和田(中学3): 僕の場合、周りの友だちは、僕がどもりだということをあまり気にしていないみたい。僕がどもっても、不思議そうな顔をするとか、なんでそんなしゃべり方するのかなど、言わないから。
伊藤: そういうふうに聞いてくれる方がしゃべりやすいね。そういう友だちを持っていいね。みんなの中にはからかわれたりする人はいる?
藤: 他のクラスの者二人が、帰りがけなどに、いやみたらしく挨拶してくる。おとついも、掃除をしているとき、隣の人に、僕を指さして「あいつ、わけのわからないことを言う」と言っていた。
伊藤: どもりの真似をされることもあるの? どういうふうにされるのかな?
藤: あるけど、そういうときは、すぐカッとなるので、どういうふうにされるかは覚えていない。他にも、国語の時間に教科書を読んでいる最中に、どもっているのを、先生に漢字が読めないと思われることがあり、すぐカッとなる。どもりまくって必死で読んでいるのに、漢字が読めないと思って「ここはこう読むんや」と言われると腹が立ってくる。
和田: そういうのはあまりないけど、自分に何か得意なことをみつけて、それをアピールすれば、その友だちもそれを認めてくれて、あまりばかにしないようになると思う。
藤: でも、僕の場合、クラスも違うし、アピールしようにも手の打ちようがない。
和田: クラスが違うんだったら、別にそんなに気にしなくてもいいと思う。
宮坂(高校1): 僕も小学生のときに、からかわれたことがあったのでよく分かる。自分の心をもっと明るく持っていたら、自然と友だちの方も明るくなってくれるんではないかと、僕は思う。
伊藤: 自分がどもって暗い顔をしていたら、周りの人間も暗くなってしまい、また、それが自分に影響してきてしまう、ということかな。どもりというのは、もちろんどもっている人がしていることなのだけれど、周りの聞き手にすごく影響されるね。いい聞き手だったら、和田君のようにあまり気にならないし、よくない聞き手だと、カッとして腹も立つしね。
和田君の友だちは、和田君が話すことばが少しおかしいとか、ちょっとどもるだけとか、それだけのことで見てくれていて、それが悪いものとかいうことは、少しも感じてないようだね。背の高い低いとかと同じように、和田君はこういうしゃべり方をするんだというふうに見てくれているんだね。そういうふうに受けとめてくれれば楽だな。
金光: そういうふうにちゃんと受けとめてくれていればいい。また、どもることなんてどうでもいいわとか、どもっても別に関係ないわというように、接してくれれば楽だ。
徳田(成人): どもったとき、視線をそらさずお互いに見ている2、3秒の間というのは、ちょっと異様だね。向こうがそらさなくても、つい、こちらがそらしてしまう。真剣に聞いてくれるのはいいけど、にらみ合っても仕方ないもんね。僕はそういうときは、ニヤッと笑ったりして、別のポーズをとるときがある。はぐらかすように、ちょっと雰囲気を変えるようにね。よく使うのが、考えるようなふりをすること。すると間がとれるときがある。
東野(成人): 話っていうのはかけあいでするので、独特の間があるね。二人で話してる時にどもってことばが出ないと、不自然になって、変に間のびがするよね。すると、聞き手は、おかしいな、なんか変やな、なんでことばが出てこないんやろ、もっと早く言うたらいいのにと思って、いやな顔をしたり、笑ったりするかもしれない。でも、それはむしろ当然なんかなあという気もする。
伊藤: 周りの目線が気になるということで、まとめてみよう。考えてほしいのは、相手のことをこちらは自由にはできないということ。「ちゃんと聞け、笑うな、からかうな」と言ったりできない。そう言ってそれで変わる人もいるけど、そうじゃない人もいる。それは僕らのせいじゃない。世の中には、どんなにどもっても受け入れて、ちゃんと聞いてくれる人もいれば、からかう人もいる。今、学校でからかう人が1、2人なくなっても、これからの人生の中で、そんな人間はいっぱい現れてくるかもしれない。僕たちの生きる姿勢としては、そんな、つまらない人の言うことに影響されないことだね。そんな相手は、人の弱みとか欠点と思われることをからかったりする情けない可哀想な人だ、と考えられないかなあ。
金光: 自分がどういうふうに他人から見られているか気になる。
伊藤: 気にならなくなるにはどうしたらいい?
金光: やっぱり自分でどもっているのが恥ずかしいという気持ちがある。それが問題かな。
伊藤: そうだろうね。自分で自分のどもりを認めることができたとき、周りがどういう反応をしても、気にならなくなるだろう。自分のどもりを、受け入れることだね。
そしてもう一つは、和田君の場合のように、僕らが考えているほど、周りの人は僕らのどもりを気にしていないんだということは、知っておいた方がいい。それと相手は無理やり変えられないから、自分が変わるしかないということ。慣れるしかない。基本的には、現在のどもりの状態を「これが俺や」というふうに考えられたとき、相手から何と言われても平気になれる。そのときに、こんなふうに言えたらな。ちょっとやってみようか。
東野さん、どもりのことで僕を責めてみて。
東野: 「どもり! どもってないで、ちゃんと話したらどうや!」
伊藤: 「どもりやもん。これが僕や。でも、僕は、この自分が好きやねん」
東野: 「うーん」(絶句)
藤: 僕は「どもりやもん」ぐらいは言ってる。
伊藤: その後の、この僕が好きやねんは、言えんかな(笑)。だけど、まだ本当に好きやなくても、相手からの嫌な攻撃をしりぞけるために、「好きや」と言ってもかまわないのとちがうか。「僕、自分自身が好きや。僕、このどもりが好きや」そう言ったらもう相手はからかうことができなくなるよ。本心でそれが言えないにしても、無理にでも言っていくことは、自分で自分のどもりを受け入れていく出発になる。みんなが、自分のどもりをなんとか治したいという気持ちはよく分かるし、僕らも21歳ぐらいまで本当に悩んでどもりが治らないとダメだと思い、どもりが嫌いで嫌いで仕方がなかったけれども、それを取り除こうと思えば思うほど、くっついてまわる。なかなか離れてくれない。離れてくれないものだったら、損得勘定からいって、可愛がってやらないと損や。僕らはどもっているから損をしたんじゃない。どもりを隠すために逃げ、したいこと、しなければならないことを、してこなかったから損してきたんや。
脇田: 中学生の頃に好きな子がいた。私、きっと、好きな子としゃべったら、他の子と比べて緊張してどもるだろうと思ってしゃべらないようにしてきたんです。やっぱり後悔してます。
宮坂: 男同士やったらいいけど、好きな子にはやっぱり僕のことを、もっとよく見てもらおうと考えてしまうから、結局しゃべれず、最後まで仲良くなれなかった。
伊藤: 要するに、よく見てもらいたい。どもってしゃべったら格好悪いなあという気持ちがあるから、好きな子の前では、ついついしゃべることが少なくなる。しゃべることが少なくなるということは、その分、自分を理解してもらえない。それはつらいね。そのときに、ええ格好しようなどという気を起こさないで、僕はこれでしかない、これが隠しようもない丸ごとの僕やと考えていたら、違うことが起こってたかもしれないな。だから、どもっている症状とか、どもっていることが悪いのではなくて、どもりを口実にして、しなきゃならないことや、したいことをあきらめて、逃げ、後で後悔をする、これがどもりの一番大きな問題じゃないかなあと僕は思う。みんなには僕らのような失敗をしてもらいたくないなあと思っている。チチンプイプイとすると、どもりが治ればそりゃ一番いいよ。いいけども、そのチチンプイプイが今ない。それなら「俺はどもりのままでいい」と、いかに早く見切りをつけるか。それが早ければ早いほど、人生が豊かになる。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/7/28