『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』(渡辺貴裕・東京学芸大学大学院准教授、藤原由香里・八幡市立美濃山小学校教諭著・時事通信社)

 渡辺さん、藤原さんのこの本に触発されて、「なってみる」ことについていろいろと体験を振り返りました。今回で最終回です。
 心理療法の中で、ゲシュタルトセラピーは好きなものの一つです。倉戸ヨシヤ先生のゲシュタルトセラピーの、高野山や琵琶湖湖畔でのワークショップなど、数え切れないほど参加してきました。そして、その集大成として、まとめの意味で、ゲシュタルト療法50セッション訓練も参加しました。ゲシュタルト療法の基礎について1セッション2時間半を50回(合計125時間)学習するもので、他のワークショップと違って、固定されたメンバーで、何度もの合宿で経験しました。そして、最終日にはフレデリック・パールズの「ゲシュタルトの祈り」の英語版を修了書のような形でいただきました。この詩は、倉戸先生のとは別のワークショップで知り、とても好きなものでした。後で、以前書いた文章で紹介します。

 ゲシュタルトセラピーで中心的に使われる技法が、エンプティ・チェアです。テーマになっている、自分自身、重要な人物、事物、身体の一部などを対象化、擬人化して、向かいの椅子に座らせ、対話を進めていく技法です。大阪吃音教室では、エンプティ・チェアに吃音を置いて、吃音への思いを思い切りぶつけることを何度か経験しています。吃音のために体験した悔しいこと、恨みなどを思い切り、何度も何度もぶつけることで、不思議な経験をする人に出会ってきました。その中の一人の女性を紹介します。
 セラピストの、吃音をどう呼びますかの問いに、彼女は「どもり様」と名付け、語りかけていきますが、思い切り思いをぶつけるようにとの誘いに、本音をどんどんぶつけていきます。
 
女性 どもり様、あなたは非常に不気味な存在で、掴み所がありません。あなたのことを分かろうとしても、一向に分からない。あなたのせいで、随分と惨めな思いをしてきました。あなたのせいです。あなたのせいです。あなたのせいです。あなたのせいで、すべてにおいて自信がもてません。他人の評価が、いつも気になります。人の目ばかりを気にして生きてきました。これもみんな、あなたのせいです。人からよく思われたい、そのことばかりを追い求めてきました。人から無視されるような対応に、たまらない思いをしてきました。あなたのせいです。
 (そんなに憎い相手なのに、どもり様という呼び方でいいですか。気持ちが変わってきたら、もっとしっくりくる呼び方に変えてみて下さい)
女性 どもりさん。私は傲慢な人間です。自分よりも下だと思う人には傲慢に振る舞って。
 (傲慢な私も、どもりさんのせいなの?)
女性  ……違います。
(じゃあ、それを言ってあげてよ)
女性 私が傲慢なのは、あなたのせいではありません。
 (じゃあ、もとから傲慢なんだ?)
女性 そうかもしれません。
 (ほかに何か出て来た気持ち、気がついた気持ちはありますか?) 
女性 どもりさんと敬遠しながら、実は、どもりさんに包まれていた、守られていたのかもしれないという気持ちがあります。
 (じゃあ、もうどもりさんを嫌って喧嘩するの、もう終わりにする?)
女性 どもりさん、もう終わりにしてもいいですか?
 (どんな返事が返ってきそう? どもりさんになってみて返事してみてください)
女性 お前次第だ。
 (もう、どもりのせいにできないねえ)
女性 えらいことになりました。
 (ほかに、どもりさんについて思うことは?)
女性 戦友やと思いました。戦友のどもりさん。
 (今、どんな気持ちですか?)
女性 ああ、そうかあ、みたいな。一緒に軍歌でも歌おう。

 ここで、同席していた僕たちと、「同期のさくら」をみんなで歌いました。ずっと吃音の苦しみを抱えてきた一人の仲間の、大きな変化、感動的な場に立ち会うことができました。
 
 僕は、長年大きなわだかまりと、恨みにも似た感情を持ち続けていた恩師を、大きなザブンに置いて、語りかけました。悔しかったこと、いろいろと邪魔をされたこと、これまでの思いを、思い切りぶつけました。ネガティヴな思いばかりをぶつけたのですが、さすがに恨みの種も尽きてきたとき、不思議な感慨が僕を包みました。ザブトン上の恩師をたたいていたのですが、そのザブトンをたぐり寄せている僕のからだをセラピストに指摘されました。憎しみに近い思いを持ち続けていたにもかかわらず、僕はその恩師に認めてもらいたい、近づきたいとの思いが奥にはあったことにびっくりしました。
 ただ、恩師との葛藤を説明のようにことばにするのではなく、今、ここに恩師がいて、直接思いをぶつける。実際の恩師とのかかわりに身を置く。つまり、「なってみる」ことで、自分では意識の中には上ってこなかった感覚に気づけたのです。
 これらの、ゲシュタルトセラピーの体験より前に、あるワークショップで知った、「ゲシュタルトの祈り」について書いている文章を紹介します。
 今回で「なってみる学び」については終わりです。
 
  
ゲシュタルトの祈り
                         伊藤伸二

 他者に自分の意見や行動が理解されない、支持されない時、人はどう対処するだろうか。
 自分の意見や行動に誤りがあるか検討し、修正すべきはするという人もいるだろう。ある人は理解しない、支持しない人を責めるかもしれない。自説を信じ、それが広く理解されることを願い、そしてそれがこれまでの方向と全く違う場合、摩擦が起こる。
 “どもりは治る、治すべき”に対し、“どもりは治らないかもしれない。治すことよりそれを持ったまま生きる道を探ろう”は、どもる人に、また吃音にかかわる人々にとって、180度の発想の転換を意味する。
 この方向転換は、10年の歳月と一万人近いどもる人の体験の中から生まれた。また、言語障害の研究者や臨床家の指導を受けたり、他の分野からの借りものではないだけに、大いなる自負と自信があった。
 自信はあったが、批判は当然予想していた。しかしいざ痛烈に批判されると、気負ってそれに対峙した。また、批判のための批判と、どもる人や言友会を思っての善意の批判との区別がつかず、全ての批判に勢い込んで反発した。私たちのあまりの尖鋭な反論に、善意の人はたじろぎ、私達との交流を断った。
 また、一気に流れを変えようとしたために、反発するどもる人が言友会から去った。
 どもりを治したいと集まってくるどもる人にどうすれば〈吃音者宣言〉を理解してもらえるか。どもる人への愛情から、どもりを治そうとする臨床家に私たちの真意をどうすれば分かってもらえるか。
―私たちの会に入ったどもる人なら〈吃音者宣言〉を理解して欲しい。私たちの会は全てのどもる人の役に立たねばならない。臨床家は、治そうとすることによるマイナス面に思いを巡らすべきだ―このような意識を自分自身では気がつかないままに持っていたのではないか。
 だから周りの人々から、「あなたたちは気負い、肩肘張って声高に自らのことを主張している」と感じられたのかもしれない。生み出すことに立ち合った〈吃音者宣言〉だが、それと今後どうつき合うか悩んだ。宣言が出され3年目、13年程前のことだ。その頃、ゲシュタルト・セラピーの提唱者パールズの詩『ゲシュタルトの祈り』と出会った。
 
 私は私のことをする
 おまえはおまえのことをする
 私はなにも、おまえの気にいるために
     この世に生きているわけじゃない
 そしておまえも、私の気にいるために
     この世にいるわけじゃない
 おまえはおまえ、私は私
 もし私達がお互いに出会うなら、
     そりゃあ素晴らしいことだ
 もし、出会わなかったら、
     そりゃあ、仕方のないことさ

 スーッと、肩の力が抜けるのを感じた。人はそれぞれに違うのだ。また違うから素晴らしいのだ。〈吃音者宣言〉と出会ってよかったという人もいれば、反発する人もいるだろう。他者に自分の考えや意見を押し付けられるものではない。ことばだけで説明したり説得したりするより、〈吃音者宣言〉の実践を積み重ねることが大切なのだと知った。
 その実践を通して、できるだけ広く理解されるように分かりやすく語る努力は続けたい。しかし、それがうまくいかなかったとしても、それは仕方のないことだ。全てのどもる人に、吃音にかかわる全ての人々に支持されるということは無理な話だ。私たちと合わないどもる人がいて当然なのだ。
 その後、私たちは〈吃音者宣言〉を直接のテーマに議論することが少なくなった。それがかえってよかったと思う。だから言語障害の分野以外に目が向き、いろいろなことが学べた。回り道をしたからこそ〈吃音者宣言〉が静かに根付いた。この回り道のきっかけを作ってくれたのが『ゲシュタルトの祈り』であった。この出会いに感謝したい。1992.6.4


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/7/1