『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』(渡辺貴裕・東京学芸大学大学院准教授、藤原由香里・八幡市立美濃山小学校教諭著・時事通信社)
昨年の秋に、渡辺貴裕さんからお送りいただいたこの本の感想を今、やっと書いています。
お送りいただいたとき、丁寧に時間をかけて作られた本だと感じ、きちんと読んで感想をお送りしますと、すぐにお礼の手紙を書いたのはよかったのですが、ずっと書けずに、気になりながら今日になってしまいました。
遅れれば遅れるほど、ちゃんと書かなければとの思いがふくれあがります。その思いが強すぎると、いつまでも書けない気がしますので、肩の力を抜いてこのブログで書きます。
ここまで遅れたのだから、本への感想だけでなく、「なってみる」ことの意義や、僕の「国語教育への思い」「コミュニケーション能力」「自己表現」などについて、吃音をからめての思いを書いていこうと思います。「なってみる」は多くのことを考えさせてくれるきっかけになりました。「なってみる」シリーズに、しばらくおつき合いください。
演劇的手法の力
『なってみる学び―演劇的手法で変わる授業と学校』(時事通信社)
この本の著者、渡辺貴裕さんには、竹内敏晴さんが亡くなった後、吃音親子サマーキャンプの「劇と上演」のプログラムをずっと担当していただいています。吃音親子サマーキャンプの一ヶ月前にスタッフで合宿で、その年に子どもたちと上演する劇の演出、子どもに教えるための手順などを、「事前レッスン」と名付けた1泊2日の合宿で学びます。竹内さんが吃音親子サマーキャンプのために書き下ろしたシナリオを渡辺さんが演出し、子どもと一緒に劇に取り組むための手順や、ウォーミングアップの「架空の世界を感じて、演じて楽しむ」エクササイズをして下さいます。20代、30代の若い人だけでなく、引っ込み思案で、劇をするなど考えられなかった、50代、60代の大人が楽しそうに弾けて演じる姿を見ると、どもることで、お芝居や表現することと一番遠い位置に、僕たちがいたのだなあと思います。
おそらく、僕と同じような経験をしているどもる人にとって、自分が芝居をするというは非常にハードルの高いものだと思います。ところが、その吃音に悩んできた人たちが、渡辺さんの指導する「事前レッスン」の場で、楽しそうに演じている姿を見ると、時々、涙がにじんでくるのです。大人でも演劇的活動は楽しいのですから、子どもがのってくるのは当たり前のことです。これまで人前に立つことを避けてきたどもる子どもたちが、吃音親子サマーキャンプの場で、どもりながらもいきいきと演じる姿を30年間見続けてきて、演劇の大きな力を僕は感じます。
渡辺さんのいう「架空の世界を感じ、それを通して気づきを得る」活動は、吃音親子サマーキャンプの劇の練習と上演に活かされます。
僕の演劇と演劇的手法体験の歴史
僕の吃音の悩みが始まり、深まっていくのに、演劇が深く関わっています。小学2年の秋の学芸会で、吃音を全く意識せず、明るく元気で、クラスの人気者だった僕は、成績もクラスのトップクラスだったこともあり、主役か、それに準じる役を密かに期待していました。ところが、どもるという理由だけで、セリフのある役から外され、それが吃音に初めて劣等感をもつきっかけになり、学芸会が終わる頃には僕は別人になっていました。勉強も遊びもせず、仲間の中にも入らず、自分を全く表現できない人間になり、将来を全く展望できない、無気力な人間になりました。小学校、中学校、高等学校生活で、何一つ楽しい思い出はありません。一方、僕の苦悩、孤独を和らげてくれたのが、文学や小説、映画や舞台だったこともあり、演劇には強い関心を持ち続けていました。
吃音に深く悩んでいた僕は、国語の時間が大嫌いでした。高校二年生の時に、国語の時間の音読が怖くて、一ヶ月ほど不登校になりました。正しく、よどみなく読むことを強要される「音読」が国語教育のすべてのような時代です。自分の考えや感じをことばにしたり、作品を表現することの喜びなど、まったくなかった国語教育だったと記憶しています。
そのような「国語教育」を経験していたにもかかわらず、僕は、大阪教育大学の言語障害児教育教員養成課程の教員をしているとき、「国語教育」こそが、吃音に悩む子どもたちにとって、一番の味方になり、今後の生きる力の源泉になると強く思っていました。だから、ことばの教室の教室を担当する教員を養成する立場でありながら、「国語教育」が充実し、養護教諭がカウンセリングについて学び、「保健室」が小学校で機能していれば、どもる子どもが、特別にことばの教室に通う必要はないのではないか、という文章を書いたことがあります。その文章は、この「なってみる」の文章のシリーズの中で紹介しますが、おそらく、僕自身が学童期・思春期に経験した「国語教育」とは全く違う「国語教育」をイメージしていたのでしょう。この本を読んで、渡辺さん、藤原さんが実践し提案している「国語教育」のようなものを、私はイメージしていたではないかと、今、振り返って思います。
僕たちは、「吃音とともに豊かに生きる」ために、吃音を認め、「表現すること」について取り組みを続けてきました。3日間の吃音ワークショップでいろんなことを学んできました。東京都立大学・大久保忠利教授から「表現読み」、日本女子大学・平木典子教授からアサーショントレーニング、詩人の谷川俊太郎さんから「詩の表現」、竹内敏晴さんから「からだとことばのレッスン」、劇作家で演出家の鴻上尚史さんから「表現すること」を学びました。さらに、鴻上さんからは、今回、渡辺さんが著書で紹介しているいろいろな演劇的手法を教えていただき、大騒ぎしながら楽しみました。
さらに、臨床心理の立場では、深山富雄・愛知学院大学教授、増野肇・ルーテル学院大学教授から心理劇(サイコドラマ)のワークショップ、大阪市立大学・倉戸ヨシヤ教授から、ゲシュタルトセラピーのワークショップで学びました。個人的には、倉戸ヨシヤ先生のゲシュタルトセラピーと、深山富雄先生のサイコドラマのワークショップは、数え切れないほど参加し続けました。ゲシュタルト療法50セッション訓練にも参加しました。
その中で、「なってみる」ことによる深い気づきを数限りなく体験しました。
前置きが長くなりましたが、そのような数々の演劇的体験のある僕自身が、『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』を読んでの感想と、「なってみる」ことについてこれまで考えていたことを、このブログで書いてみます。 (つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/22

お送りいただいたとき、丁寧に時間をかけて作られた本だと感じ、きちんと読んで感想をお送りしますと、すぐにお礼の手紙を書いたのはよかったのですが、ずっと書けずに、気になりながら今日になってしまいました。
遅れれば遅れるほど、ちゃんと書かなければとの思いがふくれあがります。その思いが強すぎると、いつまでも書けない気がしますので、肩の力を抜いてこのブログで書きます。
ここまで遅れたのだから、本への感想だけでなく、「なってみる」ことの意義や、僕の「国語教育への思い」「コミュニケーション能力」「自己表現」などについて、吃音をからめての思いを書いていこうと思います。「なってみる」は多くのことを考えさせてくれるきっかけになりました。「なってみる」シリーズに、しばらくおつき合いください。
演劇的手法の力
『なってみる学び―演劇的手法で変わる授業と学校』(時事通信社)
この本の著者、渡辺貴裕さんには、竹内敏晴さんが亡くなった後、吃音親子サマーキャンプの「劇と上演」のプログラムをずっと担当していただいています。吃音親子サマーキャンプの一ヶ月前にスタッフで合宿で、その年に子どもたちと上演する劇の演出、子どもに教えるための手順などを、「事前レッスン」と名付けた1泊2日の合宿で学びます。竹内さんが吃音親子サマーキャンプのために書き下ろしたシナリオを渡辺さんが演出し、子どもと一緒に劇に取り組むための手順や、ウォーミングアップの「架空の世界を感じて、演じて楽しむ」エクササイズをして下さいます。20代、30代の若い人だけでなく、引っ込み思案で、劇をするなど考えられなかった、50代、60代の大人が楽しそうに弾けて演じる姿を見ると、どもることで、お芝居や表現することと一番遠い位置に、僕たちがいたのだなあと思います。
おそらく、僕と同じような経験をしているどもる人にとって、自分が芝居をするというは非常にハードルの高いものだと思います。ところが、その吃音に悩んできた人たちが、渡辺さんの指導する「事前レッスン」の場で、楽しそうに演じている姿を見ると、時々、涙がにじんでくるのです。大人でも演劇的活動は楽しいのですから、子どもがのってくるのは当たり前のことです。これまで人前に立つことを避けてきたどもる子どもたちが、吃音親子サマーキャンプの場で、どもりながらもいきいきと演じる姿を30年間見続けてきて、演劇の大きな力を僕は感じます。
渡辺さんのいう「架空の世界を感じ、それを通して気づきを得る」活動は、吃音親子サマーキャンプの劇の練習と上演に活かされます。
僕の演劇と演劇的手法体験の歴史
僕の吃音の悩みが始まり、深まっていくのに、演劇が深く関わっています。小学2年の秋の学芸会で、吃音を全く意識せず、明るく元気で、クラスの人気者だった僕は、成績もクラスのトップクラスだったこともあり、主役か、それに準じる役を密かに期待していました。ところが、どもるという理由だけで、セリフのある役から外され、それが吃音に初めて劣等感をもつきっかけになり、学芸会が終わる頃には僕は別人になっていました。勉強も遊びもせず、仲間の中にも入らず、自分を全く表現できない人間になり、将来を全く展望できない、無気力な人間になりました。小学校、中学校、高等学校生活で、何一つ楽しい思い出はありません。一方、僕の苦悩、孤独を和らげてくれたのが、文学や小説、映画や舞台だったこともあり、演劇には強い関心を持ち続けていました。
吃音に深く悩んでいた僕は、国語の時間が大嫌いでした。高校二年生の時に、国語の時間の音読が怖くて、一ヶ月ほど不登校になりました。正しく、よどみなく読むことを強要される「音読」が国語教育のすべてのような時代です。自分の考えや感じをことばにしたり、作品を表現することの喜びなど、まったくなかった国語教育だったと記憶しています。
そのような「国語教育」を経験していたにもかかわらず、僕は、大阪教育大学の言語障害児教育教員養成課程の教員をしているとき、「国語教育」こそが、吃音に悩む子どもたちにとって、一番の味方になり、今後の生きる力の源泉になると強く思っていました。だから、ことばの教室の教室を担当する教員を養成する立場でありながら、「国語教育」が充実し、養護教諭がカウンセリングについて学び、「保健室」が小学校で機能していれば、どもる子どもが、特別にことばの教室に通う必要はないのではないか、という文章を書いたことがあります。その文章は、この「なってみる」の文章のシリーズの中で紹介しますが、おそらく、僕自身が学童期・思春期に経験した「国語教育」とは全く違う「国語教育」をイメージしていたのでしょう。この本を読んで、渡辺さん、藤原さんが実践し提案している「国語教育」のようなものを、私はイメージしていたではないかと、今、振り返って思います。
僕たちは、「吃音とともに豊かに生きる」ために、吃音を認め、「表現すること」について取り組みを続けてきました。3日間の吃音ワークショップでいろんなことを学んできました。東京都立大学・大久保忠利教授から「表現読み」、日本女子大学・平木典子教授からアサーショントレーニング、詩人の谷川俊太郎さんから「詩の表現」、竹内敏晴さんから「からだとことばのレッスン」、劇作家で演出家の鴻上尚史さんから「表現すること」を学びました。さらに、鴻上さんからは、今回、渡辺さんが著書で紹介しているいろいろな演劇的手法を教えていただき、大騒ぎしながら楽しみました。
さらに、臨床心理の立場では、深山富雄・愛知学院大学教授、増野肇・ルーテル学院大学教授から心理劇(サイコドラマ)のワークショップ、大阪市立大学・倉戸ヨシヤ教授から、ゲシュタルトセラピーのワークショップで学びました。個人的には、倉戸ヨシヤ先生のゲシュタルトセラピーと、深山富雄先生のサイコドラマのワークショップは、数え切れないほど参加し続けました。ゲシュタルト療法50セッション訓練にも参加しました。
その中で、「なってみる」ことによる深い気づきを数限りなく体験しました。
前置きが長くなりましたが、そのような数々の演劇的体験のある僕自身が、『なってみる学び−演劇的手法で変わる授業と学校』を読んでの感想と、「なってみる」ことについてこれまで考えていたことを、このブログで書いてみます。 (つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/6/22