今日で、堤野さんの体験紹介が終わります。こうして、7作品を一気に読み、人が変わっていく様子を身近で共有することができたこと、ありがたかったです。堤野さんが変わっていったのには、「どもる力」があったのではないかと思います。
 「どもる力」と表現されたのは、吃音ショートコースに講師としてきて下さった、劇作家・演出家の鴻上尚史さんでした。
 どもる力とは、どもっても伝えたいことは伝えるという力であり、自分自身をしっかりみつめる力であり、他者とつながっていこうという力であり、借り物でない自分のことばをもつ力であり、他の障害や生きづらさを抱える人の気持ちを思う力だと思います。僕たち大阪吃音教室の仲間たちは、自分が持っている「どもる力」を信じて生きています。
 堤野さんは現在、パソコンの技術を活かして起業し、このコロナの影響を受けている、地域の商店街の人たちに、自分の持っている力で少しでも貢献しようと、忙しい毎日を送っています。孤独だった堤野さんが、どもる仲間だけでなく、地域に根ざして多くの仲間の信頼を得て、日々、充実した日々を送っていることを思うと、これまでの7編の自分史の彼とは別人のような変わりように、大きな安堵を覚えます。スピーチセラピストと一緒に「吃音をどうしても治したい」と、大阪吃音教室に参加した時の堤野さんの印象を強く覚えているだけに、感慨深いものがあります。
 世間は、相変わらず「吃音を治す・改善する」が大多数派です。統計をとっていないので、「エビデンス・ベースド」としては、僕たちの取り組みの成果は証明できませんが、「ナラティヴ・ベースド」としては、僕たちの取り組みの成果は証明できると思います。僕たちの仲間が、自分の吃音の苦しみの歴史を書き、そこから変わっていく歴史を綴る、大阪吃音教室の「ことば文学賞」の取り組みは、今後も続いていきます。コロナ禍の中で見つけた、堤野瑛一さんの文章は今回で最終です。
 
  
自意識を超えて
                  堤野瑛一(団体職員)  33歳

 十代の終わりから二十代の始めにかけて、私は吃音の治療に明け暮れた。どもりが治らなければ生きていけないと思っていたのである。いや、正直に言い直せば、本当は生きていけるにもかかわらず、絶対に人前でどもりたくない、どもる人間として生きていきたくないと思っていたのである。
 吃音に悩んで大学を休学していた十八歳のとき、スピーチセラピストの勧めで、どもる人のセルフヘルプグループである大阪吃音教室を訪ねたが、一度参加しただけで、それ以後は通わなかった。そこには、どもりながらも、その人なりに社会生活を充実させている人がたくさんいたのだが、そのことは、どもりのせいで学校や社会に出て行けないという私の自己欺瞞を露呈し、私をそこから引きずり出そうとするからである。
 その後、私は結局不本意ながら大学を中退し、失意の中で、ほとんど話さなくていいようなアルバイトを転々としながら、吃音が治ることだけを夢に見て、治療生活を続けた。しかし私は、吃音は一人部屋に籠って、あるいは医療室の中で治療や訓練を重ねたところで改善するようなものではないことを、本当は薄々わかっていた。それでも治療を続けたのは、社会に出て行くことを出来るだけ先延ばしにしたかったからであり、そのためには、私はなにもしないで怠けているわけではない、一生懸命治療に励んでいるではないか、という口実が必要だったからである。
 二十代も半ばに差し掛かった頃、私は、もう二度と足を踏み入れまいと決めていた大阪吃音教室に、再び足を運んだ。年齢的にも、いつまでも社会に出て行くことに躊躇しているわけにはいかなくなり、もう吃音が改善することは潔く諦めて、どもる人間として生きていく決心をしたかったのだが、そのために今度は、どもりながらもその人なりに生きていけているたくさんの人を、目の当たりにしたかったのである。そして私は多くの吃音仲間から、どもりながらでも社会へと出て行く勇気を得た。
 それから年月を経て、私はとある団体の職員として働き始めたのだが、その中で、どもることで困ることも多々ありながらも、仕事仲間にはどもることを開示し、なんとかコミュニケーションを図り、私なりにこだわりをもって仕事を丁寧にこなすうちに、私の仕事を認めてくれ、私を必要としてくれる人も現れ始めた。こんな私でも役に立てるのかと思い、嬉しかった。
 そんなある日、私の勤務先で、職業訓練の一環としてのパソコン講習を実施することになり、その仕事をするメンバーに私も加えられた。私はパソコンは不得意ではなかったものの、人に教えた経験などなく、また大勢の人前で話すことにも不安があったので、差し当たり講師としてではなく、アシスタントとして教室の後ろに常駐することになった。
 その間、複数の人が入れ替わりで講師を務め、授業が展開されたのだが、教え方の上手な人もいる一方で、受講生からわかりにくいと言われる講師もおり、クラスからの不満の声は日に日に大きくなっていった。その講師の教え方はたしかにまずく、就職難の中、なんとか職に就くためにパソコンのスキルを身につけようと切実な思いで訓練に来ている受講生としては、不満を書いたくなるのも無理はないと思い、受講生を気の毒に思った。私は、これなら自分が教えた方がましなのではないかと思い立ち、思い切って同僚にその旨を伝え、その講師に代わって私が講師を務めることとなった。
 あれほど人前でどもることを恐れ、話す仕事から逃げ続けていた私が、大勢の人前に立って講師をすることになるとは夢にも思わず、自分で言い出しておきながら大きな不安が押し寄せてきたのだが、他方、これは人前で話すことに対する恐怖を克服するチャンスかもしれないとも思った。
 自分が講師をする日が来るまで、私は幾人かの講師を観察し、よいところは見習い、ああいう教え方ではわかりにくいと感じたところは、では一体どうすればいいだろうかと考え続けた。話し方、間の取り方、授業を進めるテンポ、指示棒の指し方、プロジェクターで映し出される手本用のパソコン上での操作の仕方など、あれこれと吟味し、テキストも熱心に読み込み、想定される受講生からの質問にもきちんと答えられるように入念に準備をした。
 そうこうしているうちに、いつの間にか、どもることへの不安などほとんどなくなっていった。私の関心はもっぱら、パソコンに対して苦手意識をもっている受講生にいかにわかりやすく教えるかであり、パソコンを使えるようになってもらい、職の選択肢を少しでも増やして、無事に就職出来ることに協力することだった。
 いよいよ私が講師を務める日が訪れ、授業の始めに出席を取るときには、最初の人の名前で派手にどもってしまったが、ほかの講師がやっていたのとは違って、受講生一人一人の顔を確認しながら、丁寧に出席を取っていった。平日毎日六時間の授業であり、決して楽ではなかったが、入念に準備していた甲斐あって、授業の中でしどろもどろになってしまうことはなかった。
 思えば、どもりながら生きていくのは嫌だと頑なに思い、吃音を治そうとばかり努めていた頃、私は恥ずかしいほどに自分のことしか考えていなかった。自意識過剰である。どもる姿を晒したくなく、どもれば相手にどう思われるかとばかり気に掛け、いかにどもらずにやり過ごすか、ごまかして切り抜けるかばかりに関心がいっていた。目の前で言われたりおこなわれている事柄や、相手のために自分に何が出来るかなどということには、ほとんど関心がいかなかった。
 唐突にあまりひどくどもれば、事情を知らない相手なら驚くのが普通であるし、そういう状況で、多かれ少なかれ恥ずかしく思い、出来るのであれば極力どもりたくはないと考えるのは自然なことである。人間であれば誰しもそういった自意識から完全に自由になることは出来ない。しかし、自意識に飲み込まれてしまうのでなく、自意識の向こう側に身を乗り出してみることは出来るのである。
 授業の中で私は、時折派手にどもったが、受講生と真摯に向き合っていれば、私がどもることをとやかく言う者など誰もいなかったし、なかなか言葉が出て来なくてどうしようもないときには、事情をユーモア混じりに説明すれば、愛想よく笑って受け流してくれ、友好的な態度を示してくれる人さえいた。受講生にとっては、私がどもるかどうかなどどうでもよいことであり、要はわかりやすく教えてくれさえすればよいのである。
 毎日授業の最後には、受講生にコメントカードを書いて提出してもらうことになっていたのだが、授業がわかりやすくて助かっているといった感想を書いてくれる人もおり、概ね反応はよかった。べつに自分が好評を得るために授業をしているわけではないので、必ずしもこういった感想が伝わって来なくてもいいわけなのだが、それでも正直なところ嬉しかったし、なにより昔のことを思えば、私が自意識を越えて他人の役に立てたことが感慨深かった。
 さて、あれから私の仕事は打って変わり、現在、客からの電話がかかることの多い職場に移ったのだが、私は電話が大の苦手であり、極力受話器を取ることを避けてしまっている。ほかのスタッフもいる中で、わざわざどもる私が電話に出なくてもいいではないかと思ってしまうのであるが、後ろめたい気持ちもなくはない。さあどうしたものか。(2011年)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/26