1986年、僕が大会会長として開催した第一回吃音問題研究国際大会に参加し、その後ずっと世界大会で会っている親友、オーストラリアのジョン・ステグルスは、不自然なゆっくりさと、抑揚のない話し方をします。彼は吃音治療を受けて、どもらない話し方を身につけたと言うのです。家族の前ではどもりながら話すと言うので、「吃音の仲間の僕たちの前で、そんな話し方をしなくてもいいだろう」と言うと、「それはもうできない」と言います。家の中では自然にどもっているのですが、家を出るときには「仮面」をかぶり、仕事場では絶対にどもらないように話すのだと言いました。彼の「仮面のことば」の話は強く記憶として残っています。
 昨日から紹介している僕たちの仲間の堤野さんにも、「仮面」というタイトルの文章がありました。最後に紹介する選者の高橋徹さんも、この仮面について、仮面の負の本質を言い当てていると、触れています。まさに、「仮面を付けると、視界が狭いし、息苦しい」のです。どもる人が、どもりながら話すのは当然のこと、本人がそう思い、周りがそう受け止めてくれたら、生きやすいのにと思います。

  
仮面
                  堤野瑛一(25歳 アルバイト)

 つい最近になって、やっと実感出来る様になってきた事である。僕は確実に、昔の僕ではない。僕はようやく、仮面をはずす事が出来たのだ。

 昔、僕は人前でどもる事を恐れ、人前で自分がどもる事がバレる事を恐れ、ずっと無口な人間を演じていた。必要最低限の事以外、何も言葉を口にしなかった。でも僕の中にはいつも不完全燃焼な気持ちが残り、大きなストレスを抱えていた。
 「本当は違うんだ、僕には喋りたい事がもっと沢山あるんだ。意見だって自論だって興味だって、もっと口にしたい事が山ほどあるんだ!」
 僕はいつも、心の中でそう叫んでいた。
 でも今は違う。今では訊きたい事を人に訊き、喋りたい事を何でも喋り、以前の様な不快なストレスは殆どない。決してどもりが治ったわけではない。人前でどもりながら喋っている。思い切りどもっている。

 昔の僕は、注文を言う事が出来なかったので、一人で喫茶店に入れなかった。コンビニで煙草を買う事が出来ず、いつもわざわざ自動販売機を探し買っていた。店に行って、分からない事があっても店員に聞くことが出来なかった。仲間との会話で、どもる事が嫌なばかりに、知っている事や分かっている事を、知らない、分からない振りをして何も喋らなかった。でも今は、この全部が出来る様になった。

 そう、僕はどもりを隠さなくなった。どもる自分を認める事が出来る様になったのだ。今になって考えてみると、それは当然の事の様にも思う。目の見えない人間が見える振りを出来ない様に、耳の不自由な人間が聞こえる振りを出来ない様に、片足のない人間が松葉杖を使わずに歩く事が出来ない様に…、又、どもる僕がどもりでない振りなど出来る筈がないのである。

 …どうしてこんな事に今まで気がつかなかったのだろう。認められなかったのだろう…。
結局僕は昔、背伸びをしていただけなのである。自分を実際より大きく見せようとして無理をしていただけなのである。健常者という名の仮面をつけていたのである。だけど今になって、ようやく等身大の自分を人前にさらけ出す事が出来るようになった。仮面をとる事が出来た。

 しかし何も僕は、自分一人の力だけで今の自分になれたわけではない。僕の周りには、ちゃんとモデルがあったのだ。どもる事を受け入れ、人前で堂々と等身大でどもりながら喋る人間が、僕の周囲にいる。そう、見本があれば、人間というのは生きやすいものである。自分が理想とするものが、実際にモデルとしてあれば、非常にその理想の姿に近付き易いものである。そういったモデルの方々のお陰で、僕はその人達を具体的な理想とする事が出来、そして一歩一歩近付く事ができたのである。そのモデル達に、僕は感謝したい。

 …今でも、この時はどもりたくないなとか、今どもってしまって恥ずかしいなと思う瞬間はしばしばある。しかし、もう僕は仮面を付ける事は望まない。「仮面を付けると、視界が狭いし、息苦しいのである。これから僕は、素顔をさらして生きていく。そう、仮面なんてない方が、顔が涼しいし、生身の空気を肌で感じる事が出来るから…。

 選者 高橋徹さんのコメント
 段落毎の入り方がうまい。「つい最近」「昔、僕は」「でも今は」「そう、」「…どうしてこんなことに」…。引かれるように次の段落へと進む。多重人格、仮面夫婦などが現代社会の問題となつているが、「仮面を付けると、視界が狭いし、息苦しい」に仮面の負の本質を言い当てている。(2004年記)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/5/21