今日は4月28日、僕は77歳になりました。根拠はありませんが、僕は思春期から、確実に63歳で死ぬと思っていました。それも、「野垂れ死に」のイメージです。それが、少しずつなくなっていましたが、23歳の時、3か月をかけた日本一周の一人旅で、金沢市の繁華街・香林坊の路地裏に来たとき、「ここが僕が野垂れ死にするところだ」との感じが沸いてきました。僕は今でも毎日かなりクリアーな夢をみますが、香林坊の路地裏が、夢によく出てきた、落ちぶれて死ぬ場所のイメージにそっくりだったからです。吃音の悩みから解放されてからも、この「野垂れ死に」のイメージは、もち続けていました。糖尿病ということもあって、僕が、この年まで生きるとは思ってもいませんでした。なので、とても不思議な気持ちがします。
 何年か前、小椋佳の「生前葬コンサート」に行きました。コンサートの最後に、「顧みれば」という歌を聴きました。小椋佳が、これまでの人生を振り返って作った曲でした。僕は、小椋佳の人生と、自分の人生と重ね合わせました。思っていたより長く生きてきたこと以上に、21歳で吃音の悩みから解放されてからは、ずっと充実した幸せな人生だったなあと、しみじみと思います。そして、多くの人に出逢い、支えられてきたなあと心から思います。
 30年前に離脱した、古巣の言友会の20年の記念誌に掲載するため、まだ全国言友会連絡協議会会長をしていた時代に投稿を依頼された文章があります。77歳になった誕生日の今日、「顧みれば」にちなんで、言友会の歩みを振り返って書いた文章を紹介することにします。

       顧みれば
  顧みれば 教科書のない 一度限りの 人生を
  まあよく 生きてきたと思う
  友の支え 女性の救い 出逢いの恵み 数多く
  運良く受けて 来たと思う
  運命を 満喫したと 思われる今

  顧みれば 過ち挫折 一度ならずの 重なりを
  まあ良く超えて 来たと思う
  力不足 才能超えて 果たせたことも 数多く
  心は充ちて 来たと思う
  運命を 満喫したと 思われる今

  楽しみ 悲しみ 笑いも 涙も
  生きていればこその 味わいと
  瞳綻ばせて 美晴るかす
              https://utaten.com/lyric/yg16010539/


  
東京言友会創立20周年に寄せて
  歩んできた道 これからの道

          全国言友会連絡協議会会長
          元東京言友会運営委員長    伊藤伸二

§はじめに
 一つのグループが、時の社会状況や他の組織の影響を受けずに、一人独自の歩みを続けることはあり得ない。言友会の誕生、成長は世に言う「団塊の世代」の成長と歩調を合わせている。言友会の20年を社会状況に照らしてふり返ろう。

§何でもみてやろう
 1961年、小田実の「何でもみてやろう」が発刊され、翌年には堀江謙一がヨットで太平洋を単独で横断した。「やればできる」との思いを若者に与えた影響は大きい。1964年には東京オリンピックが開かれ、日本経済はオリンピック景気から戦後最高の黄金期、いざなぎ景気へと続いていく。
 1965年、べ平連によるデモが初めて行われ、各党派が握っていた大学闘争、平和運動の主導権は、大学のクラスやサークルの一般学生、そして市民へと移っていった。
 自己の主張のためには「私も立ち上がる」気概が若者にあり、社会の青年サークル活動も活発であった。
 社会のこのような状況の中で、1964年設置された言語治療教室が、切実な要求を持つ親と熱心な教師によって、全国的な設置運動へと広がっていく。
 一方、成人吃音者は自らの吃音を治そうと、民間矯正所を訪れた。夏休みの時期などは、200人、300人と吃音者が集まり、宿舎の部屋に泊まりきれない人が廊下にあふれた。親も教師も吃音を治すことに賭けた。
 1966年秋、吃音者の吃音を治したいとの願いは一つの塊となり、言友会が誕生した。「何でもみてやろう」「私も立ち上がろう」のエネルギーが言友会を生んだのである。
 時を同じくして、障害者が生活と権利を守ろうと団結して立ち上がり、障害児教育の自主的な研究団体も創立され、発展していった。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/28