僕が吃音に悩むようになったきっかけが、小学2年生の秋の学芸会で、せりふのある役を外されたことにあるとは、これまで何度も話をし、書いてもきました。そのことをよく知っている竹内敏晴さんが、大きな舞台の主役をさせて下さいました。主役候補は二人いたのですが、僕の「どもる人間が、舞台で主役をする」の願いを知っていて、僕の実力というよりも、ひいきで僕を選んでくれたのだと思います。厳しい稽古でした。何度も何度もセリフの稽古をしたのをよく覚えています。完全にセリフがからだの中に入ったのか、いまだにセリフを言うことができます。今から紹介する文章は、いつ、どの状況で書いたのかは不明ですが、下書きのようにして残っていました。そのまま、紹介します。
 また、この舞台に関して僕の著書『新・吃音者宣言』(芳賀書店・絶版)に、竹内さんが推薦文のような形で書いて下さった文章があります。舞台に関する部分だけを紹介します。
 この文章にも書いてありますが、大勢の人の前ではほんどどもらなくなっていた僕が、この舞台をきっかけに再びどもるようになりました。そのことは「竹内敏晴さんに壊された私のことば」のタイトルの文章を「竹内敏晴特集」の「学芸総合誌・季刊『環』(藤原書店)に書きました。またいつか紹介したいと思います。

  
どもる僕が舞台に立った日

 「春になると、激しい心がすえて、春になると、決まって毎年、オラの頭がこけになる」
 秋浜悟史の戯曲の「ほらんばか」を演じる、大きな私の声が、狂気の青年の声が、会場いっぱいに響き渡る。舞台の観衆の顔は私には全く見えない。スポットライトを浴びて私はまっすぐに立っていた。
 その年の竹内敏晴さんの夏の「竹内敏晴・公開レッスン」のメイン舞台が「ほらんばか」だった。東北地方のある寒村が舞台で、春になるとほらんばか(ほら事語り)になってしまう工藤充年は、昔、仲間と集団農場を経営していて、不在の間に牛をすべて伝染病で死なせたことで、ほらんばかになってしまう。最後には、恋人の首を絞めて殺してしまうというエネルギーほとばしる主人公を演じた。
 舞台が終わって、観客にあいさつのために中央に立ったとき、私は長い間のこだわりであった「どもる人間が、劇の主人公をする」に、とうとうひとつの区切りをつけたのだ。
 私を長い間苦しめた吃音の悩みの出発は、小学校の2年生の秋の学芸会だ。劇で主役をさせてもらえなかったのは、私がどもるからだ。「どもりは悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの」という吃音に対する強い劣等感をもつきっかけとなったのが、劇で主役をさせてもらえなかったことにある。
 21歳の夏まで、私は自分を表現できずに生きてきた。夏に初恋の人との出会いや同じように吃音に悩む人に出会って私は自分のことばを取り戻した。どもりながらどんどん話していった。あれほど苦手だった電話も人前での話もできるようになり、私は大学の教員になった。大学で講義をしたり、大勢の前で講演を数限りなくし、第1回世界大会という大きな舞台にも立った。現実にはどもることは少なくないが、吃音には全く悩まなくなった。楽しく充実した人生を歩んではいるが、やり残した仕事があるような気がずっとしていた。
 竹内敏晴さんは、私の吃音へのこだわりとなった劇のことを知っていたのか知らないのか分からなかったが、東京での舞台の主役に私を指名してくださった。初めての本読みの日、竹内さんはノートに「これでは表現者としては全くダメだ、絶望的になる」と書いていたそうだ。21歳の頃からすればあまりどもらなくなっていた私は、説明説得的な口調が身につき、劇の中での表現者としてのことばにはほど遠いものだったのだ。
 3ヶ月ほど集中して稽古に励んだ。そして舞台。
 「こんなに感動した舞台は初めてだ」と若い演劇関係者が竹内さんに話したそうだ。
 幕が下りる共演者と並んであいさつするため舞台に立ったとき、言いようのない満足の、あたたかいものが胸にこみ上げてきた。大勢の人の前で私は、小学2年の秋からの私の吃音のこだわりの長い長い旅が、ここでひとつの終わりを告げたのだった。
 普段はどもっても大勢の人の前で話すときはほとんどどもらなくなっていたのが、不思議なことに、この舞台での竹内と敏晴さんの厳しい稽古の結果なのか、秋になると、再び、人前で話すときもどもるようになった。


 
伊藤伸二とその仲間たち
                      竹内敏晴
 伊藤さんとわたしは斜面に立つ小さなあづまやに座っていた。まわりに繁っている樹との間から初夏の空が見え、もうヤブ蚊が唸っていた。
 伊藤さんは小さな台本をひろげて、熱のこもった声で朗々とせりふを読み上げた。ずいぶん稽古してきたな、とわかる調子だった。ほとんど吃らない。まっすぐにすらすらとことばは進む。しかし、聞いていたわたしはだんだん気持ちが落ち込んで来て、なにも言えなくなった。汗ばんで真っ赤な顔が、実にいきいきと躍るように声張り上げているのに。
 この日のわたしの手帳には「ほとんど絶望的になる」とある。つきあって数年、とびとびには違いないが、かなりレッスンもして来、ことばに対する考えは共通しているつもりでいたのだが、からだにはなにも滲みていなかったということだろうか。「説得セツメイ的口調の明確さによる言い急ぎを、一音一拍の呼気による表現のための声にかえてゆくこと」
 伊藤さんはこの年の4月からわたしの、大学での講義に出席するために大阪から名古屋まで毎週通って来ていたのだった。その講義の前の1時間ばかりを、かれは、夏にやる公開レッスンでのかれの持役の稽古にあてたいと言うのだった。その第一回のことである。
 この時まだわたしは伊藤伸二の決意をさだかには知っていなかった。かれはこの夏、いかにしても舞台に立って、一つの役−これは短いが、ことばが力強くリズムの美しい劇で、わたしはかれをその情念のほとばしる主役に指名したのだった−しかも主役を「やり切る」こと、にいわば自分を賭けていたのだということを。
 この本を読まれたら分かることだが、かれの、どもりへの苦しいこだわりは、小学校2年生の時、学芸会のせりふのある役から外されたことから顕在化する。かれにとって、この夏の舞台はそれ以来40年の苦悶に決着をつけ、次のステップへ越え出るための闘いにほかならなかったことを、わたしは後になってしかと知ることになる。
 だが、かれの語り口の、明晰で丁寧で説得的な口調は容易に崩れなかった。たぶん、ここに現代の吃音の背負っている重荷が凝縮しているのだろう。運動のリーダーとしてのかれには殊更それがかかっていることもあるのだろうが、ほかの人にとっても自分の情念なりイメージなりを豊かに外にあらわしてゆく、息づかいの深さ強さや、声音の高低の自在や、リズムの激しい動きなどは、より無自覚に、抑圧されているに相違ない。その日わたしは、伊藤さんの熱意と向かい合うために改めて身を正した。
 上演は凄まじい気迫だった。東京の劇団にいる青年が幕が下りた後訪ねて来て、これほど感動した芝居はなかった、と息をはずませて言った。
『新・吃音者宣言』(芳賀書店)―伊藤伸二さんとその仲間たち―

 
 日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/25