それにしても、いろいろなところでたくさんの文章を書いてきたものです。いつ、どこで、何のために書いたものか、さっぱり覚えていないのですが、鉛筆で下書きされたものがいくつかみつかりました。体験したことは同じですが、導入や展開の仕方で微妙に違ったものになります。
 今日、紹介する文章も、いつ書いたものなのか不明です。自分で読んで、なつかしく思います。

  
どもってもどもっても
                          伊藤伸二

 どもりが治らないと、私は何もできないとずっと思っていた。だから、どうしても、どもりを治したかった。21歳の夏、どもりが治ると宣伝する東京正生学院に行った時、私のどもりが治って、私の人生は大きく変わると思っていた。4ヶ月の必死の訓練にもかかわらず、私の吃音は治らなかった。では私は何もできないのか。
 私の家はとても貧乏だったので、大学1年生の東京での大学生活のすべてを、自分でかせがなくてはならない。どもっていれば何もできないと思っていた私でも、黙って配るだけの新聞配達はできると思っていたから、大学生活は新聞配達店の住み込みからスタートした。東京の大学へ行った大きな理由のひとつは、どもりを治すことにあった。東京正生学院という、当時一番信用できると思っていた所に行けるからだった。ところが、新聞配達を続けていては、肝心の吃音矯正所に行くことができない。そこで、大学の夏休みに入って、私は新聞配達店をやめ、吃音矯正所の寮に入った。どもりが治れば、新聞配達以外のアルバイトもできるからと思ったからだ。
 夏休み中、30日間、寮に入って訓練したが、私のどもりは治らなかった。新聞配達店を引き払っているので、住むところから探さなくてはならない。3帖一間の安いアパートを探したので、アルバイトを探し、アルバイトをして生活をしなければならない。大きな不安があるはずだが、全く不安は消えていた。それは、どもりを治すことにあきらめがつき、これまでどもりを隠し、話すことから逃げていた生活をやめる覚悟が夏休みの間にできたからだ。
 遊びの金をかせぐためのアルバイトなら、つらければやめるだろう。しかし、生活のためだから、どんなに辛くてもアルバイトをしなければならない。働かないことは、大学をやめること、東京を離れることを意味する。どっちみちしなければならないアルバイトなら、自分を変えるきっかけにしようと思った。
 アルバイトを再開するにあたって、私はひとつのルールを決めた。どんなに条件のいい、人間関係のいいアルバイト先でも、1ヶ月で辞めること。どんなに苦しくても1ヶ月は絶対に続けることだ。
 工場で汗水流して働き、デパートや商店ではどもってどもって応対した。仕事を選ぶことは一切しなかった。お茶の水にあった学徒援助会には、大学生の求人が毎日掲示されていた。そこに掲示されているアルバイトを片っ端から応募していった。
 大学の4年間、私はありとあらゆる仕事に就いた。しなかったのは、靴磨きくらいではないだろうかと思うぐらい、種々雑多の仕事をした。その中で、楽しかった、恋も芽生えた楽しいバイトもあったが、苦しいことの方が多かった。特に苦しかったのは、神田のガード下の「美人座」というキャバレーの1ヶ月だ。ホステスのマッチの火で呼びつけられて、暗がりの中で注文を聞く。「鶏の唐揚げ5人前と、ビール3本」。いろんな注文の中で、この注文が一番困った。調理場に注文を通す。「とととと…」ひどくどもった。「忙しいのに、早く言え、バカ!」何度も怒鳴られ、なぐられたこともあった。すぐにでも辞めたかったが、私にはルールがある。どんなに苦しくても1ヶ月は続けなければならない。それでも続けられたのは、採用してくれた支配人や、優しいホステスの励ましだった。
 学習研究社のこども百科のセールスも辛かった。インターホンを押して、家の人が出てきてくれても、何も話せずに立ち去ったこともあった。しかし、この苦しいアルバイト生活の中でも私は大きなものをつかんだ。どもりが治らなくても、どもりながらでも、できない仕事は何ひとつないのだということを。どんな仕事に就いても、私は生きていけるという大きな自信を私はつかんだ。
 どんなに苦しくても、どんなにどもっても、アルバイトが続けられたのは、私の家が貧乏だったからだ。逃げることを許さなかった我が家の貧乏に今は感謝している。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/4/24