吃音に深く悩んでいた、小学2年生から21歳までの13年間、その5倍以上の時間が経過した今、苦しかった時代がどんどん忘れ去られていきます。早く、自伝小説的なものを書きたいと思いながら、まったく手つかずのままに日が過ぎています。今、段ボールに入っていた、過去のニュースレターの中に、過去に書いた文章をみつけると、とても懐かしい思いが広がります。今日、紹介する文章は、ニュースレターの中のものではないので、いつ書いたのか不明ですが、僕にとっては大きな出来事でした。
 この体験で外見も形も大事だとの思いを新たにしました。これは、父親の影響です。父については文章は全く残っていないので、「赤シャツ」の前座として少し書きます。
 父は、明治生まれの人間としては背が高く、180センチほどはあったでしょうか。三人の息子は誰も父親の背を抜くことはできませんでした。大阪の船場で、親の材木関係の仕事を継いだものの、戦争の影響で倒産し、吃音を治すためにと打ち込んでいた「能楽・謡曲の師範」を生業として6人家族の生計を立てていました。敗戦の後、趣味にお金を使う余裕がない中で、「お弟子さん」も少なく、極めて貧しい生活を余儀なくされていました。しかし、いつも着慣れた和服姿で颯爽と町を歩いていました。まだお金があった時に買いためていた「和服」は質屋に入れたものも多かったはずですが、多少残っていたのでしょう。
 貧乏なとき、つらい、苦しいときほど、「身なりはちゃんとするものだ」が口癖でした。それが「赤シャツ」を着ることにこだわったルーツだと思います。

    
赤シャツ
                 伊藤伸二
 何度も何度もその店の前を通りすぎた。今日は必ず買おうと下宿を出て、アルバイトに行く途中のこの店の前に来る。この男性洋品の店に真赤なスポーツシャツが吊るされているのを見てほっとする。
 陰気で地味で目立つことのできない私は、学校での講義、集会等、人の集まる所ではいつも隅っこにいる。髪型もオーソドックス、くつは黒ぐつ、上着はいつもくすんだ茶色か灰色、ズボンも汚れが目立たないものばかり、どもりの暗さをほぼ完壁に身にまとっていたのであろう。
 こんな自分を変えたい、明るくなりたい、どもりから解放されたい、どもりにがんじがらめになっていた私が、なぜ「赤シャツ」に目をつけたのか、今では思い出せない。ただ過去の暗い自分と訣別するのに一番手っとり早い方法だと考えたのだろうか。
 あの「赤シャツ」を着れば何かが変わる―そのような気がして半ば強迫的に思いつめた。しかし、長年の習慣を打ち破るのは簡単なことではない。
 赤シャツが買えない。
 どもるから買えないのではない。ぶらさがっている赤シャツを手にとって札に書いてある代金を手渡せば手に入るのだから。それなのに、10日間も買えずにいる自分が腹立たしい。
 それがなぜ、11日目に買えたのかは思い出せない。11日目に赤シャツを手にしたときは宝物を手に入れたような気持ちになった。アラビアンナイトに出てくる魔法のジュウタンがちょうど私の赤シャツにあたるのだ。急いで下宿に帰って着てみた。今までの地味な自分を見慣れているので、赤シャツを着た自分が別人のように見えた。いかにも軽薄な間抜けに見え、これだったら灰色の方がよっぽどいいやと思い、何度も着替える。似合わない。一体どんな人がこんな赤シャツを着るのだろうか。
 赤シャツを買うまでに11日間、そしてそれを着て町に出るのに7日間、ずいぶんばかげた話だが、当の本人は真剣そのものだった。赤シャツを着て町に出たときは、18日間もかけてひとつの仕事をやりとげたという充実感でいっぱいだった。町のみんながふりかえる、そんな気恥かしさを感じながら、昼の新宿の町を一人で歩いた。
 ひとつの赤シャツをきっかけに、私の服装はずいぶん変わった。目立つ色やデザインのものを平気で着ることができるようになった。初めの頃、全く似合わなかった赤シャツも、今ではピッタリ似合うから不思議なものだ。
 23歳のとき、ひとりで3か月の日本一周の旅に出た。そのときの写真を見ると赤シャツだらけ。そして、その横にはほとんど女性が一緒で、知床で、桜島で、赤シャツを着たうれしそうな顔が笑っている。
 陰気な、くすんだように目の輝きのない高校生時代の写真とは全く別人のようだ。

                  
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/25