昨日、吃音にさらに深く悩むきっかけとなった「母親のひとこと」の文を紹介しました。その後のことについて、思いがけずに詩として書くことができました。
1998年、詩人の谷川俊太郎さんと竹内敏晴さんの二人のゲストを招いて「谷川俊太郎と竹内敏晴の世界」と題した2泊3日のワークショップを開きました。
その時のプログラムの中で、「谷川俊太郎 自作の詩を読む」のライブの前に、僕たちも詩をつくって、前座として発表することになりました。そこで、急遽作った詩が、今回紹介する「母へのレクイエム」です。
その詩が、「母親のひとこと」の続編のようになっています。
長くなりますが、2回に分けて紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/22
1998年、詩人の谷川俊太郎さんと竹内敏晴さんの二人のゲストを招いて「谷川俊太郎と竹内敏晴の世界」と題した2泊3日のワークショップを開きました。
その時のプログラムの中で、「谷川俊太郎 自作の詩を読む」のライブの前に、僕たちも詩をつくって、前座として発表することになりました。そこで、急遽作った詩が、今回紹介する「母へのレクイエム」です。
その詩が、「母親のひとこと」の続編のようになっています。
長くなりますが、2回に分けて紹介します。
母へのレクイエム
伊藤伸二
♫ 動物園のらくださん
まんまるお月さん出たときは
遠いお国の母さんと
おねんねした夜を思い出す
元気でいますと お月さん
砂漠のお空を通るとき
お伝え下さい 僕たちの
やさしいやさしい 母さんへ
教えてあげましょ お月さま
月夜に 僕らの見る夢は
恋しい母さん 待っている
砂漠のお家へ帰る夢 ♫
小学校へあがる頃
母はよく僕をひざの上にのせ
この童謡を歌ってくれた
胸のあたたかさと声のやわらかさが僕をつつんだ
僕は幸せだった
遠足、運動会が大好きだった
母が色どりよくつくってくれた弁当を
友達に自慢げに見せながら食べるとき
母の笑顔が浮かんだ
僕は幸せだった
母物映画が流行った頃
学校の講堂や夜の公園で
時々母物映画をみた
決まって楽しい母は出てこない
いつも悲しい結末の映画だった
その映画を涙をぼろぼろこぼしながら見ているとき
いつも胸騒ぎを覚えた
母はどうしているだろうか
映画が終わるのを待ちかねて
僕は思い切り家までかけもどる
元気な母の顔を見てほっとする
息せききってかけもどった息子が
まじまじと自分の顔を見て笑うのを
けげんそうな顔で母は笑っていた
僕は幸せだった
小学二年生の秋から
僕はどもりに悩み始めた
授業では本が読めずに立っていただけ
懸命に読んだ僕の音は
タ、タ、タ、タタと激しく音を重ねる
つらかった、苦しかった
そのつらさは母にも言えなかったけれど
きっと母は分かってくれていると思っていた
僕はその母がいることだけで
つらい学校生活を耐えられたのかもしれない
どもりに悩み始めてからの僕は
運動会が嫌いになった
弁当を見せ合う友達が
ひとりもいなくなったからだ
「うるさいわね、そんなことしてもどもりが治るわけないでしょ」
中学一年生の夏
僕がどもりを治すために発声練習をしていたとき
このことばが飛んできた
聞くはずのない言葉
聞きたくない
これまでの母への思いが一瞬のうちに
凍りついた
「なんでそんなこと言うんや」
涙がぼろぼろこぼれた
そのときから僕は母が嫌いになった
なんて僕は不幸せなのだろう
生活の中での必要なことば以外
僕は話さなくなった
母の声は、気持ちは
もう僕に届かなくなった
学校での孤独、家での孤独
僕は本当のひとりぼっちになった
僕はどもりのために友達と母を失った
どもりを治したい
その思いばかりがふくらんだ
僕は不幸せだ
一浪の末にまた大学受験を失敗
いつも鬱々とした気分
冷たい家での勉強、早く家を出たい
勉強は身に入らずいつもボーとしていた
大学に受からないのは当然だった
逃げるように家を出た
田舎からふろしきに教科書を包んで大阪へ
何が待っているのか分からないが
母と離れることの寂しさは
全く感じなかった
母物映画を見ているときの
不安な気持ちは味わいたくてももう味わえなくなっていた
大阪の僕は本当のひとりぼっちだった
家庭の中で孤立していたときとは
まったく違う孤独感
気が遠くなるような寂しさ
月がきれいな夜には決まって
母を思い出した
まんまるお月さん出たときは
僕は動物園のらくだになっていた
母物映画で流した涙がまた
戻ってきた
「うるさいわね」
と言った母よりも
動物園のらくださんを歌ってくれている母の方が思い出された (つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/3/22