丹野さんは、人情あふれる熱い人でした。弁論大会で声は鍛えていて、声量もあり、いい声の持ち主でした。カラオケに行くと、ここに紹介している「人生劇場」や、鶴田浩二の歌など、よく歌っていました。熱い思いにあふれる人だからこそ、どもる人のグループ作りに情熱を捧げることができたのでしょう。僕たち若者の、ともすれば先走ってしまう危なっかしい行動を、落ち着いて、かつ、熱い思いのまま、支えていただきました。
 娘さんが通っていた中学校は、公立中学校ではなく、都内でも有数の名門私立中学です。時には、来賓として国会議員が来るような、そんな中学校なので、気合いが入るのは無理ないことかも知れませんが、それにしても、時代がかっています。それが丹野さんのおもしろいところです。言友会創立時と違って、この頃の丹野さんに、僕はよく、「フーテンの寅さん」のイメージを重ねていました。当時の丹野さんにしては大仕事だったのでしょう。卒業式当日の丹野さんの胸の内、ライブ感覚でお読みいただければと思います。 

娘の卒業式に謝辞を読む 2
      東京言友会会長  丹野裕文(歯科医師)

§当日
 いよいよ当日、三月十八日、日曜日がやってきた。さすがに、前の晩はよく眠れなかった。顔がほてり、頭がふらふらするような感じであった。
 副校長に言われたように、午前九時前に学校へ行った。十時から開始だったので生徒はまだあまり来ていない。校長室に通され、謝辞の仕方、作法などを副校長から教わった。私は「本番では、さぞかしあがってしまうだろうなあ」と内心どきどきしながら説明を聞いていた。
 九時半頃になると、PTAの会長、前PTA会長(現顧問)、区長、そして学園長と卒業式の主要人物が揃った。そして司会役の教頭が、私の名前の正しい読み方を聞くに及んで、「ああ、やっぱり自分自身が謝辞をやるんだなあ。」という思いが私の胸をしめつけた。もう逃げられない。ここて逃げたら、人生の敗北者であり、社会的名誉・信用が喪失し、そしてこれが一番恐いことだが、多感な一人娘から何と思われるかわからない。いろいろな思いが去来したが、やらなければならなかった。この謝辞は、絶対私にしかできない内容のものであったからだ。

 定刻十時の五分前、学園長を先頭にして、お偉方から順番に慣れた足どりで部屋を出て、卒業式の行われる講堂へと向かっていく。私はその「軍団」の最後尾について、まるで夢遊病者のように、宙を浮いたような足どりで歩いている。
 千五百人は軽く収容できる講堂は階段状になっており、立っている人もいて、立錐の余地もないほどいっぱいにふくれあがっている。私は舞台の右前に作られた来賓席の最前列に座った。来賓席の正面は教職員席になっている。学園長と区長、PTA会長が舞台の壇上に登っていくのが見えた。
 式はまず、全員起立して国歌斉唱から始まった。恐る恐る式次第を見ると、「父兄総代謝辞」はすべての挨拶の最後で、それまで長い緊張が続くことになる。
 それでもあっという間に、「卒業証書授与」「褒賞授与」「記念品贈与」と式典は進められ、とうとう「学園長の挨拶」まで来てしまった。
 私の心臓はどきどきするばかりで、もうすべての雰囲気に完全に圧倒されていた。「うまく話すことができるか?」「どもらずに話せるか?」という考えが、全身を覆い包みこんでしまっているようであった。父兄席を見渡すと、妻らしい人影がチラッと見えた。恐らく彼女も心配しているに違いない。
 来賓の挨拶として、区長、PTA会長と続き、在校生の送辞、卒業生の答辞と型通り式は進められ、とうとう私の番がやってきた。
 その時、それまで舞台の壇上におられた学園長、来賓の方々が、皆壇上から降りて来るではないか? そして学園長は教職員の席の一番前に立ち、来賓席の前にマイクが置かれたのである。要するに、父兄代表の私の謝辞を、学園長と教職員の先生方が立ち上がって威儀を正し、拝聴するということらしい。
 「よし!どもってもともと、正々堂々と話していこう!」私は、この光景を目の当りにして、もうじたばたしても始まらない、度胸を決めるしかないと観念した。

§いよいよ本番
 「次は父兄総代としまして…」司会者が私の名前を告げた。私はゆっくりと立ち上がり、左のポケットに入れておいた巻紙の謝辞をおもむろに取り出した。司会者の声が続く。「卒業生、在校生 起立!教職員起立!父兄の方も御起立下さい!」

―青成瓢吉(私の愛読書『人生劇場』の主人公)、いよいよの出番だ。瓢吉っつあん、頑張ってくれ!
 『亡き父よ!亡き母よ! 半生をどもりで悩み、いつも学校の成績が悪くて、あなた方の期待を裏切り、そしてあまり親孝行もできなかった息子…そんな駄目な男が、名誉にも学校から指名されて、こんなにも多くの人たちの前で謝辞を読むことになったのだよ。喜んで下さい! 陰ながら応援して下さい!
 妻よ!娘よ!今日のこの父の姿を、後々忘れぬようよく見ておいてくれ。父は精いっぱい頑張ってくるからね』―

 私は心の底からそう叫んで、ゆっくりとマイクに近づいていった。
 マイクの前に立つと心臓の動悸は不思議と無くなっていた。第一音が勝負、「勘どころ」なので、なるべくゆっくりと話し出すよう心がけるつもりでいた。
 『謝辞!』―言えた。ゆっくりと、はっきりと、発することができた。うれしかった。これならば何とかいけそうだ。永年の勘で、瞬時のうちにそう判断した。
 『草木も芽生え、山々の残雪の遠景にも春の訪れを感じる時節となりました。』なかなかの名調子である。ゆっくりと、話しかけるように、弁論調にならないように心がけた。練習でテープに入れた時、あまりの演説調子なのを妻や娘に注意されたからである。
 『本日、陽光うららかな佳き日、』この名文句は、私の好きな鶴田浩二のセリフから取ったものである。
 『○○中学校第六十四期生卒業式に臨席させていただき、誠に僭越でございますが、父兄を代表しまして、ひと言感謝の意を申し述べさせていただきます。』
 ウーン! これならばもう大丈夫だ。心配していた声のふるえも全然ない。これは、ひょっとすると名調子でやり通せるかもしれない。私は内心非常に喜んだのである。
 『光陰矢の如し、と申しますが、月日の経つのは誠に早いもので、ついこの間までは親の後を追い、無邪気な遊びに熱中していた子供達でしたが、今では生意気にも親に反抗するような年代にまで成長してまいりました。』
 なかなかの名調子が続いていく。特に「生意気にも」のところを少し声量を高めて発音するなど気を使った。それは落ち着きも充分に出てきた証拠でもあった。
 『成長するということ、それは子供が親から離れてゆくことでもあり、そのことに関しましては大いなる喜びを感じるとともに、一抹のさびしさをも又感じてしまう、というのが偽らざる親の心境でごさいましょう。』
 オーッといけない。最後の文章のところで、ちょっと声がふるえてしまった。あまり感情を出して読んでいったせいか、ぐーっと胸にくるものがあったようだ。

―そうだよなあ! 子どもが親から離れていくのはさびしいものだよなあ。幼稚園や小学校低学年の頃がなつかしい。あの頃はよく「パパ、パパ!」と、なついてそばに寄ってきたっけなあ。―

 そんなことを思ったせいか、少々話し方が涙声になってしまった。こりゃいけない。青成瓢吉っつあん、たのんまっせ!
 『いずれにいたしましても、この三年間の中学生活で子供達は体力的にも、学力的にも、より一層充実さを増し、今ここに集う卒業生の、自信に満ち満ちた力強い姿を目の当りに見ます時、教育のもつすばらしい力に、今更ながら感動いたすものでございます。』
 前の涙声から立ち直って、この文章は情をこめて堂々と読むことができた。ここのところの文章は、ゆっくりと読まないとつまづいてしまう心配があったので、その点を配慮して読んでいくように努力した。
 『これらはまた、今日ここまで御導き下さいました学園長先生はじめ、諸先生方の御指導の賜物と、心より深く感謝申し上げる次第でございます。』
 そこで私は、教職員の席に向かって深々と頭を下げた。よし、落ち着いているぞ、その意気で最後まで頑張っていこうぜ! 瓢吉っつあん!
 『今更申し上げるまでもなく、○○学園の伝統はその一貫した教育体系にあります。また校章の○○は、生徒本人を学校と家庭で支えあって教育していくのが、○○学園の信条である、ともうかがっております。』
 さらに、ますます好調さが続いていく。もう全くどもりなど意に介さなくなってしまった。
 言わせてもらえるものならば、私にとって、生涯一度の名場面であろうか。
 『私共は、その教育方法、教育方針に非常に共感しており、そのような良き環境のもとで、これからもより一層充実した学園生活を送っていけますよう、私共父兄は心から祈念いたしたく思います。』
 できた! 形式的な前半は終わった。いよいよ、これからが私の本当の出番。私しか言えない場面がやってくる。青成瓢吉君、しっかりたのんだぞ!

 一呼吸置いて、私は静かな語り口で話し始めた。
 『これは私事で恐縮ですが、この場をお借りして、卒業生の皆様に是非聞いていただきたいことがあります。』

―そうなのだ!なんとしても聞いてもらいたいことなのだ!私の苦しんだ少年時代を―

 『私は、子供の頃からひどいひどいどもりで、ことばをスムーズに話すことができず…』
―あーっと、いけない。瓢吉君どうしたんだ。だんだん涙が出てくるではないか。ああ!これはまずいことになった。頑張ってくれ、頑張って話していかなくてはいけないんだよ。―

 『小学校でも中学校でも、学校の授業では自分では知っているやさしい字も読めず…』

 ああ!、とうとう完全に涙声になってしまった。唇がぶるぶるふるえてくるのが分かる。嗚咽している状態で、それでも無理をして話している。困った!でも最後までやらなくてはいけない。必死に声をふりしぼって話し続けていくより他はない。―

 『何も知らない先生からは馬鹿にされ…』

―そうなんだ!もっともっと先生に理解があったならば、どもりに対する知識があったならば、私の子ども時代はどんなにすばらしかったことだろうか。それを思うと、どもりに理解のある先生に会わなかったのが悔しかった。私は小学校中学校と、今でも全部の先生の名前、顔を覚えている。けれど、誰一人として私のどもりに対して、勇気づけ励ましてくれた先生はいなかった。時代が時代だといえばそれまでだが、私はそんな無知な先生たちが憎い。今でも憎い!―
 『同級生からは、どもり、どもりとからかわれ、いじめられ、口では言えないほど、大変つらい思いをしてまいりました。』
 私の話し方はもうまったく涙声で、唇はぶるぶるふるえ、そのふるえを歯でしっかりと固定しようと努力しているだけだった。しかし、永年鍛えてきたおかげで、声量だけは豊富である。腹の底から、丹田から発する発音は、声は鳴咽していてもしっかりとしている。
これこそ二十数年間の言友会活動の、いや、高校時代からのどもり克服のための練習の成果である、と言えようか。
 『高校に入りましてからも、どもりは尚更ひどくなり、学校に行くことさえいやになる時もありました。』

―そうだったなあ! 私の入った高校は旧制府立十一中(現江北高校)で、非常に教育熱心な学校だったのだ。意地の悪い女の英語の先生がいて、授業中よく立たされたっけなあ。でも一人だけ親切な先生がいた。数学担任の大竹先生だ。先生のおかげで、私はどもりを自分の力で治してみよう、そのために弁論大会に出てみようと思うようになったのだ。―

 話しぶりは相変わらず鳴咽状態の涙声で、数度にわたって話すことを中断してしまった。涙が出てきて仕方なかった。でも私は頑張った。何としても言いたかった。話したかった。訴えたかった。
 『しかし、高校二年生の時に、私は決心したのです。よし、私自身の力でどもりを治してみよう!と。』

―そうなのだ! 私が本当にどもりの克服に目覚めたのは、高校二年の夏休みからだったのだ。高校一年の秋から新聞配達を始め、夏休みまで貯金をして、そのお金で「東京正生学院」に入ったのだ。―

 『それからは、毎日毎日発声訓練、弁論の訓練等を繰り返し繰り返し練習してまいりました。』

―そうだったなあ。いろいろな名称をつけては、どもり克服の訓練をし、その結果をこまめに日記に書いていったっけ。あの若き日の情熱が、今はとてもなつかしい。―

 私の涙声はいくぶんおさまって落ち着いてきた。そしてそれに乗じて今度は、俗に言う熱弁風な弁論調に変わってきたようだ。弁論調ならばお手のものである。大学の弁論部で鍛えてある。

―青成瓢吉よ! これからが肝心なところだ。卒業生に、父兄に、そして教職員の先生方、ご来賓の皆さん方に訴えていこうではないか!―

 私はゆっくりと、そして自信をこめて、こう言ったのである。
 『そして現在では、皆様の前で、これだけ話せるようになったのです。』
 もっともっと言いたかった。言いたいことは山ほどある。しかし、それ以上言ってしまっては、やはり「キザ」になってしまうであろう。もう私自身の体験談はこれだけでよい。今日は卒業式だ。卒業生を励ます必要がある。私はより一層声を大にして話しかけた。
 『本日の卒業生の皆さん方の中に、もしも私のように何らかのハンディ、劣等感をもって悩んでいる方がおられたならば、私は言いたい!』
 このシーンこそ、私が一番言いたかったことである。私は「何らかの」のことばに特別なアクセントをつけ、そして、「私は言いたい」というフレーズをものすごい声量で、この日最も大きな声で絶叫した。
 『その障害に負けてはいけません!絶対あきらめないで努力して下さい!』
 言語に火がつく、というのは、まさにこういうときに使われる表現なのだろう。私は、半泣きの声と、力いっぱいの声量とで言い抜くことができた。
 『そして、勇気を出して、その障害に立ち向かっていって下さい!努力をすれば、努力をすれば必ず道は開かれてゆくものと、私は確信いたします!』
 とうとう言い抜けることができた。私はこのことを、これから旅立っていく前途ある若人に言いたかったのだ。障害などに負けるな! それよりも、それを克服していこうという努力こそが必要なのだと。
 『これからの高校生活を大いに意義あるものにすべく、私のつたない体験談を話させていただきました。』
 これだけを言い終わると、私の涙声はなくなっていった。もう熱弁をふるう必要はない。あとは巻紙に書かれてあることをたんたんと読んでいけばいいことであった。
 『終わりに、○○学園のますますの御発展と学園長先生始め諸先生方、並びに御来賓御父兄の皆様方の御健勝を心からお祈り申し上げまして、感謝の辞とさせていただきます。平成二年三月十八日、○○中学校第六十四期卒業生、父兄代表、丹野裕文』
                          (1990.4.30 つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/25