さあ、今日はいよいよ、言友会の誕生です。上野公園に13名が集まった時のこと、今でも鮮明に思い出すことができます。うれしくて、うれしくて、前の日は眠れませんでした。興奮したまま、上野公園に行きました。夏に30日間、西隆盛の銅像前で演説の練習をした、あの上野公園です。
前年に井沢八郎の「ああ、上野駅」の歌が大ヒットしました。
♪♪ どこかに故郷の 香をのせて
入る列車の なつかしさ
上野は 俺らの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった ♪♪
僕の幸せな吃音人生も、ここ上野から始まったのです。井沢八郎の歌う上野駅が「心の駅」なら、僕にとって、上野公園は「心の公園」です。僕は一年に数回は東京に行きます。年末年始、10日間ほど、東京で過ごすこともあります。東京に行ったら、必ず上野公園に一度は足を踏み入れます。言いようのない、懐かしさがこみ上げてくるのです。このような公園があること、幸せなことだと思います。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/20
前年に井沢八郎の「ああ、上野駅」の歌が大ヒットしました。
♪♪ どこかに故郷の 香をのせて
入る列車の なつかしさ
上野は 俺らの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった ♪♪
僕の幸せな吃音人生も、ここ上野から始まったのです。井沢八郎の歌う上野駅が「心の駅」なら、僕にとって、上野公園は「心の公園」です。僕は一年に数回は東京に行きます。年末年始、10日間ほど、東京で過ごすこともあります。東京に行ったら、必ず上野公園に一度は足を踏み入れます。言いようのない、懐かしさがこみ上げてくるのです。このような公園があること、幸せなことだと思います。
言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出 (3)
言友会結成
昭和40年10月、13名のサムライが上野公園に集まった。熱っぽい話し合いに、映画好きのA君は、「血判状を作って誓おう」とまで言い出した。彼こそ最初の脱落者だったのだから、血判状を作っておけばと悔やまれる。会の名前をつけるのに相当の時間を必要とした。「わかば」「あすなろ」は紅一点のM子さん。政治好きのK君は、「日本吃音同志会」「吃音撲滅同盟」などといかめしい。50近くの名前が出て迷っていた時、それまで押し黙っていた神野芳雄君が重い口を開く、「ことばで結ばれる……ことばのとも……言友会」このことばで「言友会」は誕生した。
その後の役員人選では、丹野裕文会長、伊藤伸二幹事長以下、11名全員役員という豪華な体制を作りあげた。私達は一日も早く会員を集める必要があった。役員ばかりでは会は動くものではないのだ。
講談・詩吟・弁論・話し方・社交ダンスのクラブ活動中心の例会は厳しい中にも楽しさいっぱいで、役員の自覚で欠席者はほとんどなく、例会後の喫茶店の語らいがまた楽しく、私達は日曜日の例会が待ち遠しくてならなかった。私達にとって丹野さんはよき先生であり、また、兄貴でもあり、丹野さんの魅力が言友会の全てのような感じだった。それでも1ヵ月もすると、会員が増えていたのに例会参加者は減り、寒い冬の数名の例会はさびしさも一段とこたえた。早くもピンチを迎えたのだ。
翌41年1月中句、言友会の一大転機を迎えた。丹野さんの投書が朝日新聞に掲載されたのだった。言友会のマスコミ界への初陣であった。
◇サークルへの誘い◇
「現在、日本の吃音矯正はすべて民間に委託されているが、営利が目的で、真に吃音者のためを考えていないようです。それで都内に住む吃音者有志で言友会を作り、どもりを吃音者自身の団結の力で克服しようと試みています。
会員は現在30余人で、弁論、講談などのクラブ活動を行っています。吃音者の参加を歓迎します」。
反響はすごく、電話や手紙で問い合わせが殺到し、言友会は役員だけの会からの脱皮に成功した。毎週水曜日開かれていた幹事会に新しい人も加わり、熱っぽい話し合いが続いた。終わったあとのおにぎり屋での一杯こそ若い私達をひきつけていた。会の将来を、また先輩の人生をみんなで考え語るうちによく最終電車に乗り遅れ、近くの会員の家で泊まったりもした。丹野さんのエネルギッシュな言動が会に熱っぽい雰囲気を与え、人間関係も血の通ったものになったり、会は除々に力をつけてきた。
言友会発会式
昭和41年4月3日、朝日新聞は大スクープをやってのけた。他紙に全く載っていない大きな記事。「力を合わせてどもり克服に励む言友会、今日発会式」3段抜きの大きな扱いに、私たちの2ヵ月にわたる努力がむくわれた思いだった。例会にほとんどの会員が参加し、演劇に講談にと練習にはげんでいたのだった。新聞を見ると私はすぐに丹野さんの家に向かった。
2人で会場に向う車のなかで私達ははしゃいでいた。「あんなに大きく出たんだから200人は来るな」「いや300はかたいよ」やけに車が遅かった。みんなもすでに新聞のことを知っていてうれしそうに準備をしていた。記者席、来賓席は前列に用意した。私といえば300人の大聴衆の前での報告を頭にえがいて胸は高なっていた。しかし開始の時間が来ても目につくのは準備をしている会員だけ、30分遅らせても結果は同じで、会員すら全員参加でなく、新聞を見てきた人などほとんどいなかった。
私たちはここでやっと現実に戻らなければならなかった。やたらと主のない椅子席が目立ち、私はそこに目をやりながらこれまでの会の報告をした。どもる元気もなかった。
でも、会員は出席者の少ないのに反発するかのような熱演ぶりだった。中でも演劇部の「模擬国会」の迷演には、笑いとひやかしの声援がとんだ。みんな素直に自分の地を出していたのだ。(つづく)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/20