このブログでは、僕がニュースレターに書いた巻頭言を中心に紹介しています。その号の他のページは、紹介してきませんでしたが、せっかくなので、紹介していこうと思います。
 その中で、言友会を僕と一緒に作った丹野裕文さんの文章が出てきたので紹介しようと思います。
 言友会は、1965年に創立し、正式な発会式が翌年の4月なので、すでに55年以上も前の話になります。言友会の創立者が丹野裕文さんと伊藤伸二だということは、僕が言友会から1994年に離脱したために、言友会の歴史ではなかったかのようにされています。僕の名前は多少知られていても、丹野裕文さんのことは知らない人も多いのではないかと思います。どんな歴史であっても、歴史をなかったことにはできないものです。
 僕は本当に恵まれた、ラッキーな人との出会いでここまで幸せな人生を生きてきました。それは、丹野裕文さんとの出会いが出発です。彼との出会いがなければ、確実に今の僕は存在しません。
 心からの感謝の気持ちをこめて、丹野裕文さんのことを紹介します。
 丹野さんの「娘の卒業式に謝辞を読む」の文章を紹介するまえに、1971年に僕が書いた「言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出」の文章を紹介します。若気の至りか、文章には勢いがあるものの、いちびって書いている部分もありますが、当時書いたものなので、そのままお読みいただきます。

 
言友会誕生のエピソードと言友会活動の思い出(1) 
            伊藤 伸二

 どもり講談教室での出会い
 偶然に会い、なんとなく別れてゆく淡白な出会いの多いなかで、その人と私の出会いは何かが起こりそうな、そんな殺気をはらんでいた。
 民間吃音矯正所に籍を置き、「どもりが治るのならなんでもやってやろう」と意気盛んだった私は、「講談のリズムでどもりを治そう」との田辺一鶴さんの呼びかけにもすぐに応じていた。今でこそテレビ・寄席などで大活躍の一鶴さんも、トレードマークのヒゲがまだ生えやらぬほんのかけ出しだった。どもりを治すために講談の世界に入り、講談ではどもらなくなったという実績をふまえての呼びかけだけに、かなりの人が集まっていた。
 1人での個人参加が多いなかで、ひときわ声高にしゃべる集団参加の一団があり、その声がそれでなくてもおとなしいまわりの人達をますますおとなしくさせていた。私が吃音矯正所仲間を大勢ひきつれて顔をみせていたのだった。一応の説明が終わった時、おとなしいはずの参加者のなかから異質な人間が前に出て、「先生」と、大声を出した。これまでの説明の間にはみかけなかった顔だった。医者と教師以外の「先生、先生」に不快感を持っている私には、それだけでいやになっていた。
 「私もどもりを治すためのこのような会のできるのを待っていました。私も一生懸命やりますから頑張りましょう」
 握手を求め、贈り物まで手渡した。説明も聞いていないで、私達大集団をさしおいての大きな態度に私達は相当頭にきていた。
 吃音矯正所仲間のなかで、どもることにかけては質量共に1番と折り紙つきのK君には、態度そのものより彼の口から飛び出す流暢な日本語にがまんならなかった。会合が終わるとK君はその人に詰め寄っていた。「君は全然どもらないのになぜこの会に来たのか?それに贈り物なんかして何か魂胆でもあるのか」。仲間内では通じるK君のことばもその人には通じなかったかも知れない。しかし、K君の態度からただごとでないことはわかったらしかった。
 一瞬殺気立った空気が流れ、帰りかけていた人も立ち止まった。
 「なあ、みんなで食事でもしてゆっくり話そうや」
 声をかけたのは今は故人となられた親話会(どもり矯正会)の依田さんだった。冷静に考えれば彼に詰め寄る積極的な理由を見つけられなかった私達は、その言葉に救われた思いだった。むしろK君の森の石松ぶりにおかしさすら感じていた私達は、むろん全員参加でのぞんだ。
 おなかが一杯になったK君がおとなしかったので話ははずんだ。
 「遅れて来たんで、すわる場所がなかったんです。それで『チョット』と思ったパチンコで、思いがけずにとれた景品を、持って帰るのもめんどうなので渡したのがどうも誤解されてしまって」
 その人はテレて説明をした。大笑いだった。誤解はとれてもK君にとっては、「私も前はひどいどもりで苦しんだんです」のことばだけは納得いかなかったらしい。それだけその人の日本語は確かなものだった。
 この人こそ、言友会の生みの親、長い間東京言友会の会長をつとめ、全国言友会運動の先頭にも立つ丹野裕文その人だった。そして民間吃音矯正所の仲間をひきつれてきていたお山の大将は、当時大学1年生の私で、言友会はこの2人の殺気だった出会いから始まったのだった。(つづく)


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2021/2/18