昔は使っていたけれど、今は使わなくなったことばがあります。「吃音者」もそのひとつです。「吃音者宣言」の文章を起草し、「吃音者宣言」(たいまつ社)の本を書きながら、「吃音者」のことばにだんだん抵抗感が大きくなっています。「吃音者」に代わって今は、「どもる人」ということばを、僕は使っています。もうひとつ、昔から僕は使いませんでしたが、民間吃音矯正所で使われていたものに、「正音者」ということばがありました。そのタイトルの文章を書いていました。1990年3月29日のものです。
 ことばには、ずっとこだわってきました。どもることをなくそうということではなく、自分の思いや考えをしっかりと相手に伝えたいということを大切にして、トレーニングもしてきました。表現よみ、ボイストレーニング、竹内敏晴からだとことばのレッスンと、たくさんの講師を招いて、学んできました。その歴史は長いものでした。
 どもらないけれど、抑揚のない平坦な話し方は、果たして自分のことばなのでしょうか。「学習どもりカルタ」の、子どもが作った読み札には、「ロボットみたいな話し方、どもらなくても僕は嫌」とあります。

  
正音者
                             伊藤伸二

 かつて「正音者」ということばがあった。
 「吃音者」に対しての「正音者」というこのことばは、民間矯正所で使われ始めたのだろうが、どもる人自身も、使っていた。一体、ことばに正しいものとそうでないものとがあるのか? 正しい音とはどんなものであろうか? 現在でも根強く残っている対症療法のひとつに注意転換法がある。どんなに不自然であってもどもってはいけない、「あのー」「えー」ということばを頻繁に使っても、また「わーたーくーしーはー」と極端にゆっくり言おうとも、どもらない方がいい、どもっていてはいつまでたっても正音者になれないのだ、つまり、どもらない話し方が正音なのだと、その技法はいう。
 「あーなーたーたーちーはー、まーちーがーってーいーるー…」。
 1985年、九州・能古島の全国大会に、熊本から60歳前後の人が参加し、私のように治した者がいる、治すための努力をすべきだと主張した。その人のことばは確かにどもってはいない。しかし、どもらないように話そうとするため極端にゆっくりで、抑揚がない。「あなたのことばこそどもっている」と指摘する人も出て、彼に同意する人は誰もいなかった。個性を殺しても、どもらない話し方をすべきだという主張にほとんどのどもる人はノーと答えたのである。
 このような伝統的な治療法の特徴の一つに、再発がある。一時的にどもらずに話せても、2〜3か月すると元の状態に戻ってしまうのだ。この再発に関しては、「日常的にこの方法を使わなければ再発する。だから教えられたとおりに努力する必要がある」と努力の継続を第一とし、もし再発したらそれはどもる人の努力不足だと責めた。ほとんどのどもる人が再発しているという現実の中で、どもる人は吃音に悩みながら、またそれを治したいと思いながら、なぜ、治す努力を続けないのであろうか。多くのどもる人にこの点を尋ねたところ、次のような答えが寄せられた。

*練習があまりにも単調でおもしろくない
*どこまですれば治るか、見通しがない
*不自然な話し方で日常生活で応用できない
*吃音には好不調の波があり、好調のときはつい練習がおろそかになってしまう
*どもっていてもまがりなりにも日常生活が続けられる

 私たちは、ことばの訓練や呼吸法に重点を置いた活動から、吃音の受容を重点とした活動へと方向を変え、症状の消失および改善にのみポイントを置いた治す試みに否定的な態度をとり続けてきた。ことばに悩んできた私たちであったが、これまで、ことばに関しては1982年、国語教育の都立大学教授の大久保忠利さんから「表現よみ」を学んだ以外、あまりしてこなかったといっていい。
 吃音の受容について一定の成果が上がった今、ことばについてもっと取り組もうと1990年の吃音ワークショップin神戸では、ボイストレーニングを取り入れた。それに先立って念願の竹内敏晴さんを招いて、リーダー研修会がもたれた。そのレッスンは、私たちがかつて受けた発声・呼吸を中心とした吃音を治すための言語訓練とは随分違っていた。とにかく楽しくレッスンができ、からだが、ことばが、ひらかれていくという実感を持った。個性を生かしてのこのようなレッスンであれば、多くのどもる人が日常生活の中で楽しくできることではないか。
 「どもればどもるほど人間的であるという、その位のしゃべり方を確立したらいいよ」と言う竹内敏晴さんのことばは、これからことばの問題を考えていこうとするときの大きな支えになろう。今、このときに、竹内さんと出会ったことを大切にしたい。1990.3.29


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/12/28