2014年の大阪吃音教室の講座「どもり内観」を紹介してきましたが、それからさかのぼること8年、2006年2月に、僕が担当した「どもり内観」の報告記録が残っていました。
 前半は、吃音そのものではなく、人間関係に焦点を当てて、過去を振り返っています。どもって立ち往生したり、困難な場面に遭遇したとき、周りの人が自分に「何をしてくれた」だろうか、そのことに関して自分はその人に「して返したこと」があるかないか、どもっているということで「迷惑をかけたこと」はないかを振り返っていました。後半は、どもりそのものについて考えました。まず、前半を紹介します。

大阪吃音教室だより
        「どもり内観」 2006.2.24  担当 伊藤伸二

 事実は事実として受け止めよう

伊藤 今日は、「どもり内観」をします。自分がこれまで生きてきた中で、「世話になったこと(してもらったこと〉」、自分自身が「して返したこと」、「迷惑をかけたこと」、この3つについて振り返ってみましょう。
 僕も何度か内観の経験があります。
 奈良内観研究所でした集中内観は、一週間、一人で部屋にこもって思い出します。まず母親について先ほどの3つを考えます。次に父親のこと、結婚しているなら配偶者のことを順に思い出すのです。最初は、そんな子どもの時のことなど思い出せないだろうと思うのですが、一週間普通の世界から遮断された世界にいると、いろんな事が思い出されてきます。だからといって世話になったことを感謝しろといっているわけではなく、事実は事実として受け止めようということです。3つの中で、吃音に悩んでいた時は、自分自身が迷惑をかけられたことというのは、山ほど思い出すことができます。だけど、世話になったことや、して返したことはなかなか思い出せません。
 「どもり内観」という名前をつけていますが、僕たちがしているのは、内観の手法を使って、吃音に関わる人生を振り返るというものです。今回、2つの違うバージョンを考えました。まず、人間関係に焦点を当て、今までの過去を振り返って、どもって立ち往生したり、困難な場面に出会った時、周りの人が自分に「何をしてくれた」だろうか、そのことに関して自分はその人に「して返したこと」があるかないか、どもっていることで誰かに「迷惑をかけたこと」はないかを振り返ってみましょう。次に吃音を「どもりさん」にして、どもりさんについて考えます。まず、周りの人に対してです。

 周りの人に「してもらったこと」「して返したこと」、「迷惑をかけたこと」

 過去、吃音で悩んだり困ったりしたときや、困難な場面に出会ったとき、周りの人にしてもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを思い出し、紙に書く。グループに分かれて自分が書いたことを話し合い、その後、全体で発表した。話し合いの中で、出てきたことをいくつか紹介します。

・吃音について世話になったことは、ある人が私の悩みを聞いてくれたことですが、私も、その人の話や悩みを聞いてあげた。
・よく考えたが、「して返したこと」が少なかった。また、「世話になったこと」と「迷惑をかけたこと」の区別がしにくかった。具体的には、自分が電話できなかった時、他の人に代わってもらった。
・学校で英語の先生が友達の吃音をバカにしたとき、別の友達が「先生が、そんなん言うな」とかばってくれた。
伊藤 僕もいろいろ考えたけど、吃音に悩んでいたころは、「してもらったこと」はあまり思い浮かばない。でも、どもる人のグループを作ってからは、「してもらったこと」は、いっぱい思い浮かぶ。40年前に僕と同じような多くのどもる人と出会えたのも、東京正生学院のおかげだし、自分がグループのリーダーとして活動し始めてからは周りの人にいっぱいお世話になった。悩んでいるときは、「してもらったこと」はほとんど思い浮かばないものなのかもしれませんね。
・僕はどもって発言がうまくいかない時に、友達が横から助けてくれたという経験があるが、これはとても嫌だったので、してもらったことにカウントできない。
・大阪吃音教室に来て、皆さんに悩みなどを聞いてもらっている。内観を悩んだので、これからは、他の人の話にも耳を傾けてお返しをしたい。
伊藤 キーワードとしては、アドラー心理学の共同体感覚でいう、自己肯定、他者信頼、他者貢献の3つを実感しないと、なかなか人間関係の中に出ていけない。その中の一つの他者信頼、世の中には吃音をからかったりする人もいるけど、基本的にはそんな人ばかりではない。悩みや苦しみを聞いてくれる人もいるし、困った時に手を貸してくれる人もいる。それが現実だと思うけれど、それらはすぐ忘れてしまう。世の中全部が自分のことを悪く言うとか、世の中全部が敵で自分の足を引っ張るというイメージを持ってしまうと、どもりながらでもがんばっていこうというエネルギーをなかなか持てない。
 僕もどもり内観をしてみて、吃音に悩んでいたころのことを振り返っても、「してもらったこと」はなかなか思い浮かばなかった。ある意味、だから、21才まで僕は一人で悩んでいたんだなあと思う。でも、それは、白分自身が悪いのかもしれない。周りの人に対して、自分は困っているとか、助けてほしいとか、弱音を吐いていれば、ひょっとしたら「してもらったこと」はいっぱいあったかもしれない。吃音を隠して逃げて、どもることを恥ずかしく思っていると、人に援助を求められない。助けを求められない。僕たちの方から、助けを求めたり、弱音を吐いたり、自分の惨めさを誰かに伝えるようなことをしたりしていたら、あんなに悩むことはなかったんじゃないかと、今は思う。(つづく)2006.2.24


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/11/27