吃音親子サマーキャンプと劇づくり 渡辺貴裕(4)

 4回にわたり、渡辺貴裕さんの論考を紹介してきました。今日で最後です。
 吃音とは全く縁のない渡辺さんが、20回も参加を続けて、ここ10年は、スタッフの劇の指導も引き受けて下さっています。今更ながらですが、感謝の気持ちでいっぱいです。
 渡辺さんは、劇づくりの活動は、相手の言葉をしっかりと受けとめ、自分も相手に確かに働きかけることを試み、その喜びを経験する場だと言います。サマーキャンプの劇は、どもっても笑われないし、せかされないし、「見栄えのよさ」も求められません。人とまっすぐにかかわることを追求することができるのです。これはきっと、演劇教育の本質とつながっているのでしょう。
 どもる当事者でもない、どもる子どもを指導することばの教室担当者でも言語聴覚士でもない渡辺貴裕さんは、昨年の30回を迎えた吃音親子サマーキャンプのときに、なぜ私は参加しているのだろうと今更ながら不思議に思っていると話されました。きっと、吃音に対する僕たちのとらえ方が、生きることにとって、人間にとって、普遍の問題と重なるからでしょう。そんな渡辺さんのような人たちに助けられ、励まされ、吃音親子サマーキャンプは、一度も途切れることなく、30年間続いてきたのです。それが、今年は新型コロナウイルスの感染拡大のために中止にせざるを得なかったのは、本当に残念です。一度止まってしまったキャンプですが、僕たちの周りに渡辺さんをはじめ、たくさんの「志」ある仲間がいてくれます。その人たちと、また再開したいと願っています。今回、吃音親子サマーキャンプの大きな特徴である「劇作り」について、紹介できたことはうれしいことでした。
 ただひたむきに、人に、からだと言葉で働きかけること、他人からの働きかけを受けとめること、僕たちはこれからも、その営みを大切にしていきたいと思います。


どもる子どもたちによる劇づくり〜第17回吃音親子サマーキャンプより〜

 渡辺貴裕(東京学芸大学大学院准教授、当時岐阜経済大学講師・教育方法学)

  キャンプを通して見る演劇教育の意義

 今年の上演も、各グループの子どもたちがそれぞれの魅力を存分に発揮していた。最初はセリフが多い役を嫌がったりしていた子どもたちである。それが短い間に、全員ではないにせよ、演じることを楽しむようになる(Bグループでセリフの多い役へ移ってもらった数名も、上演後尋ねると、「(この役で)よかった」と言っていたらしい)。なかには、福岡までの帰りの新幹線でずっと台本を読んでいたという子どもや、家に帰ってからも友達と台本で遊んでほとんどのセリフを覚えてしまったという子どももいる。そこまでいかなくても、劇をするのが嫌ではなくなる子どもが大半である。
 それでは、彼らにとって、劇づくりの活動の魅力は何なのだろうか。劇づくりの活動は、どもる子どもたちにいったい何をもたらしているのだろうか。
 それは一つには、自分にも人前でしゃべる力があるんだという自信である。かつて小学4年生の女の子が作文にこう書いた。
 「いやなことでは、本読みのときです。本当は、じょうずに読めるのに、どもって読めません。……ふしぎなことに、一人で本読みなどしていると、どもりません。どもるときとどもらないときがあって、自分がちゃんとしたいときにどもり、そこがすこしいやでたまりません。」
 言い換えができない言葉をしゃべらなければならない場面に苦手意識を持っている吃音の子どもは多い。単にどもるだけでなく、そうした場面を避けるべく、授業中発言しなくなったり、あるいは、「どもったらどうしよう」と意識することによってかえって、より苦しいどもり方をするようになっていったりする。そうした子どもにとって、セリフがある役を人前で演じきって観客や仲間に認められることは、「どもるからといって何もできなくなるわけではない」ことを実感し、「できない自分」という意識を変えるきっかけとなり得る。
しかし、劇づくりの活動がもたらすものはこれだけにはとどまらない。
 どもる子どもは、しばしば、特に年齢が上がると、話している相手よりも自分のしゃべり方に、つまり、自分がどもらずしゃべることができているかにもっぱら意識を向けてしまう。話している相手に、「なんでそんなしゃべり方なん?」「それ治らへんの?」と繰り返し言われてきた経験がそうさせるのだろう。また、吃音は、自分がしゃべりさえしなければ、隠すことができてしまう「障害」である。そのため、吃音に対して否定的な捉え方をもっている子どもは、時に、しゃべることを避け、人とかかわることを避けるようにもなっていく。
 こうした子どもたちにとって、劇づくりの活動は、相手の言葉をしっかりと受けとめ、自分も相手に確かに働きかけることを試み、その喜びを経験する場となり得る。キャンプの劇では、どもっても笑われないし、せかされないし、「見栄えのよさ」も求められない。ただ純粋に、劇の世界のなかで、人とまっすぐにかかわることを追求することができるのである。
 このことは、演劇教育の本質を考えるうえでも、示唆に富む。
 残念なことに、今でも、演劇といえば教師によって決められた話し方や動作を「上手に」(多くの場合、それはオーバーで不自然な演技であるのだが)行うものであるという考えが、教師の間にも子どもの間にも根強く存在する。そうした「決められた話し方や動作」の基準から見れば、どもる子どもは多くの場合、「上手に」はできない。
 しかし、キャンプの劇づくりの活動が示しているように、どもる子どもにも劇を楽しむことができるし、観客の心を打つ劇をつくりあげることもできる。この事実は、演劇教育の本質が、単一の外形的な尺度に基づいた上手さの達成にあるのではなく、人とまっすぐにかかわるという行為の経験そのものにあることを示している。
 考えてみれば、どもらない子ども(および大人)の場合であっても、演劇活動のなかで、相手の言葉を受けとめ、相手に働きかけることが必ずしもできているわけではない。ただ、外形的な上手さの追求が比較的容易にできてしまうため、それに気付かずにいるだけなのだ。このキャンプの劇づくりでは、そうしたごまかしが通用しない。ただひたむきに、人にからだと言葉で働きかけること、他人からの働きかけを受けとめることを追求する。それは決してラクな作業ではないが、それこそが、からだの芯からの喜びと上演時の強烈な魅力とを生みだすことになるのである。
 演劇教育は、うまく話せる子どもをもっと見栄えよく話せるようにするためのものではない。このことに、吃音親子サマーキャンプの取り組みはあらためて気付かせてくれる。

※キャンプ参加についての問い合わせは、
   日本吃音臨床研究会事務局まで。
     電話 072―820―8244

 (日本演劇教育連盟編『演劇と教育』晩成書房、第590号、2006年12月、36−45頁)

日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/9/23