吃音は、学童期こそが大切
第6回吃音親子サマーキャンプは、前年と同じ綾部市の聴覚・言語障害者総合福祉センター「いこいの村」で開かれました。恒例となったカレー作り、話し合い、からだとことばのレッスンとしてのからだ揺らし、詩や歌、そして、竹内敏晴さんから演出・指導を受けた芝居「木竜うるし」を僕たちが子どもに指導し、稽古をし、上演するという内容でした。
前年、参加したものの、吃音に向き合うことができずに、途中で帰りたいと言い出した高校生がいました。高校生が途中で帰ることは認めたものの、母親には残ってもらいました。そして、高校生をバス停まで送っていく道すがら、いろんなことを話すことができました。教育関係者の父親が吃音で、吃音をとても否定的に考え、家では吃音の話題がタブーだったそうです。だから、吃音について何も知らずに苦しみながら高校生になり、母親とキャンプに参加しました。彼に、残っている母親に何か伝えることはないかと尋ねました。すると、次のように話して、帰っていきました。
「もっと早く、吃音について知りたかった。妹もどもるので、来年は妹を連れてきてやって欲しい。吃音が治りにくいことも含めて、妹には母親の口からどもりのことを話し、どもる仲間に会わせてあげて欲しい」
高校生の兄は、もう少し早く吃音に向き合っていれば、キャンプの途中で帰ることもなく、新しい展望が開けたのではないかと思うと、途中で帰ったことを含めて、残念な気持ちを持ち続けています。幸い、翌年の今回、その小学3年生の妹と母親が参加しました。
学童期に吃音と向き合わずにきた子どもが、思春期になって、いきなり、さあ吃音に向き合おうと言われても、それは無理なことです。
学童期、自分にとって、大切な吃音について、正しい知識を知りたいと思うのは、当然のことでしょう。僕たちは知り得た事実は語っていこうと思います。
第6回吃音親子サマーキャンプ(1995年)
会場 京都府綾部市 聴覚・言語障害者総合福祉センター「いこいの村」
参加者 50人
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/29
第6回吃音親子サマーキャンプは、前年と同じ綾部市の聴覚・言語障害者総合福祉センター「いこいの村」で開かれました。恒例となったカレー作り、話し合い、からだとことばのレッスンとしてのからだ揺らし、詩や歌、そして、竹内敏晴さんから演出・指導を受けた芝居「木竜うるし」を僕たちが子どもに指導し、稽古をし、上演するという内容でした。
前年、参加したものの、吃音に向き合うことができずに、途中で帰りたいと言い出した高校生がいました。高校生が途中で帰ることは認めたものの、母親には残ってもらいました。そして、高校生をバス停まで送っていく道すがら、いろんなことを話すことができました。教育関係者の父親が吃音で、吃音をとても否定的に考え、家では吃音の話題がタブーだったそうです。だから、吃音について何も知らずに苦しみながら高校生になり、母親とキャンプに参加しました。彼に、残っている母親に何か伝えることはないかと尋ねました。すると、次のように話して、帰っていきました。
「もっと早く、吃音について知りたかった。妹もどもるので、来年は妹を連れてきてやって欲しい。吃音が治りにくいことも含めて、妹には母親の口からどもりのことを話し、どもる仲間に会わせてあげて欲しい」
高校生の兄は、もう少し早く吃音に向き合っていれば、キャンプの途中で帰ることもなく、新しい展望が開けたのではないかと思うと、途中で帰ったことを含めて、残念な気持ちを持ち続けています。幸い、翌年の今回、その小学3年生の妹と母親が参加しました。
学童期に吃音と向き合わずにきた子どもが、思春期になって、いきなり、さあ吃音に向き合おうと言われても、それは無理なことです。
学童期、自分にとって、大切な吃音について、正しい知識を知りたいと思うのは、当然のことでしょう。僕たちは知り得た事実は語っていこうと思います。
第6回吃音親子サマーキャンプ(1995年)
会場 京都府綾部市 聴覚・言語障害者総合福祉センター「いこいの村」
参加者 50人
ああ、学童期
日本吃音臨床研究会会長 伊藤伸二
アイデンティティの概念で知られる、心理学者E・H・エリクソンは、人間の生涯を8つの段階に分けた。そして、その段階ごとに、体験しなければならない発達課題を設定した。
エリクソンの中心テーマが、アイデンティティにあるように、思春期が発達上危機的な時期であることは、言うまでもない。また、乳幼児期が子どもの発達にとって極めて重要な時期であることも、論をまたない。このふたつの時期に比べ、学童期は人生の中でも最も安定した時期のひとつとされ、あまり顧みられてこなかった。
しかし、エリクソンによれば、発達は、前段階の社会・心理的発達課題が達成されてこそ次の段階に進むことができ、一つの段階を飛び越すことはできない。とすれば、最も波乱が多く危機に満ちている思春期の前段階である学童期にもっと関心が寄せられるべきである。しかし、学童期に、課題を十分に達成できずとも、 学童期に危機的状況が現れることは少ない。だから対応が遅れてしまう。
学童期は国語の時間当てられて嫌だったが、まあなんとか過ごせたと言うどもる人は多い。悩みが一気に吹き出し、ひどく悩むのは次の思春期だ。
『スタタリング・ナウ』No.1で、いじめられ体験を語ってくれた男子は、3・4年、5・6年と、ひどい教師にあたっている。学童期の不適切な教師の対応のつけは、思春期に噴出する。思春期にいじめに会った彼は今も、その後遺症の精神疾患に悩む。
この学童期をエリクソンは、「学ぶ存在である」といい、社会・心理的発達課題を《勤勉性対劣等感》で表した。
勤勉性とは、「精一杯学ぶとか、一所懸命何かをする」ことである。学ぶ喜びを味わい、困難なことに立ち向かい、そのプロセスの中で解決していく喜びを持てると、有能感が獲得されていく。
国語の朗読でどもって皆に笑われる。知っている答えも、「分かりません」と言ってしまう。どもることを教師や級友から否定的に評価されると、学ぶ喜びを味わえない。学ぶことが苦痛になる時、自分は他人より劣っているとの劣等感が強くなる。
学童期に、劣等感よりも勤勉性が勝り、自分なりの有能感を持つことができれば、「どもるけれど、僕にはこんないいところがある。こんなことができる」と考えられる。学童期の課題が達成できていれば、今精神疾患で悩む彼も、いじめに向かい合う力がついていたに違いない。
どもるからといって、出してもらえなかった学芸会。「最近手を挙げなくなりました。この消極性をなんとかしたいものです」と何度も書かれた通信簿。児童会の役員選挙で、どもる私を推薦するかどうかでもめた学級会。私の学童期の教師も級友も、私に劣等感を増幅させる役割しか果たさなかった。何かを成し遂げる喜びも、学ぶ楽しさも全く味わえない、孤独な学童期を生きた。当然、思春期の危機に直面する。どもりを恨み、母を恨み、自分は何者であるのか、掴めなかった。
今から振り返れば、私にとってのセルフヘルプグループの活動は、飛ばしてしまった学童期のやり直しであったようだ。学童期にできなかったことを私はセルフヘルプグループの活動の中で、ひとつひとつやり遂げていったようだ。
活動の中から、「私にもできるじゃないか」「私は私なりにできる力がある」とやっと思えるようになった時、私の学童期の課題は達成された。そして、私の本当の思春期はかなり遅れて始まった。
吃音親子サマーキャンプに参加した学童期の子どもたち。仲間と語り合うことの楽しさ。しんどく苦しかったけれど、みんなと一緒に劇に取り組み、やり遂げた喜び。僕にもできるという有能感をもってくれたに違いない。どもりどもり精一杯舞台で表現する子どもたちの中にそれを見た。
劣等感に勝る勤勉性を、そこからくる有能感を、子どもたちが持てるような体験を大人たちが用意できるだろうか。吃音と向き合う力は、学童期にこそ養われる。
その大切な学童期が、今、危ない。(了) (1995.10.11)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/29