「吃音は必ず治る」と信じて生きてきたのに、「治らない」とあっさり言われた。
話すことから徹底的に逃げた僕と正反対に、決して逃げなかった人の体験を紹介します。看護師としての仕事は、どもる彼女にとって厳しいものだったと思います。逃げないという選択肢の中で必死に生きてきた彼女の物語は、何度も読んでいますが、心に響きます。
看護師の仕事、幼い子どもの子育ての真っ最中に、彼女は6ヶ月間、毎週、大阪吃音教室に参加し続けました。看護師が、毎週決まった時間に仕事をあけて参加する、普通に考えると不可能に近いことです。しかし、彼女はやりきりました。ここで踏ん張って「吃音と向き合う」ことをしなければ、自分の未来はないと信じたからでしょう。大阪吃音教室も、時間が合えば参加する程度なら、あまり成果は得られないのかもしれません。大阪吃音教室で大きく変化し、大きく成長した人はほとんど、半年や一年を通して毎週参加し続ける人です。そうでなければ、「吃音と共に生きる」ことを体得するのは難しいのでしょう。「吃音と共に豊かに生きる」は、そんなに容易いことではありません。
彼女は看護師長として後輩を育て、専門学校などでも講義をしていました。今は定年退職していますが、満ち足りた人生を送ったと思います。その後の生活のことや、今あの頃を振り返ってどう思うかなど、また、文章を書いてみませんかと言ったとき、彼女は、「あの頃は、どもっていることで本当に苦しかった。でも、その頃の方が自分らしく、しっかりと、豊かに、濃く、生きていたと思う。だから、書くことができたけれど、今はもう書けない」と言いました。
現在、仕事をしながら、しんどい思いをしている人にぜひ、読んでいただきたい体験です。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/15
話すことから徹底的に逃げた僕と正反対に、決して逃げなかった人の体験を紹介します。看護師としての仕事は、どもる彼女にとって厳しいものだったと思います。逃げないという選択肢の中で必死に生きてきた彼女の物語は、何度も読んでいますが、心に響きます。
看護師の仕事、幼い子どもの子育ての真っ最中に、彼女は6ヶ月間、毎週、大阪吃音教室に参加し続けました。看護師が、毎週決まった時間に仕事をあけて参加する、普通に考えると不可能に近いことです。しかし、彼女はやりきりました。ここで踏ん張って「吃音と向き合う」ことをしなければ、自分の未来はないと信じたからでしょう。大阪吃音教室も、時間が合えば参加する程度なら、あまり成果は得られないのかもしれません。大阪吃音教室で大きく変化し、大きく成長した人はほとんど、半年や一年を通して毎週参加し続ける人です。そうでなければ、「吃音と共に生きる」ことを体得するのは難しいのでしょう。「吃音と共に豊かに生きる」は、そんなに容易いことではありません。
彼女は看護師長として後輩を育て、専門学校などでも講義をしていました。今は定年退職していますが、満ち足りた人生を送ったと思います。その後の生活のことや、今あの頃を振り返ってどう思うかなど、また、文章を書いてみませんかと言ったとき、彼女は、「あの頃は、どもっていることで本当に苦しかった。でも、その頃の方が自分らしく、しっかりと、豊かに、濃く、生きていたと思う。だから、書くことができたけれど、今はもう書けない」と言いました。
現在、仕事をしながら、しんどい思いをしている人にぜひ、読んでいただきたい体験です。
自分の中の吃音
物心がついた頃から、どもっていた。厳格で、潔癖な母は、何とか私のどもりを治そうと、私の異常な発音に注意深くなっていた。母の前で話すときは緊張し、どもる。どもるたびに、困惑し、悲しそうにする母の顔を見るのが辛かった。
小学校、中学校時代は男子生徒から馬鹿にされたり、はやしたてられ何度となくみじめな思いを味わった。しかし、それでも、学校を欠席することは、その後の学校生活を含めて一度もなかった。自己紹介、国語の朗読、研究発表、与えられたことは、皆と同じようにしてきた。どんなにひどくどもっても苦しくても逃げることはしなかった。本当は辛いと言って泣きたかった。逃げたかった。でも、それをしなかったのは、逃げる勇気がなかったからかもしれない。
母は、「どもりは必ず治る」と、私を勇気づけ、私もそれを信じて疑わなかった。どもりが治ることが、母の、そして私の共通の願いだった。
高校一年のとき、民間吃音矯正所へ行った。期待して行った吃音矯正所は、劣等感、罪悪感を更に植えつけただけで、多くのどもる人たちが経験したのと同じ結果となった。
どもるハンディを持つ私に、何がしかの資格を持たせたかった母に言われるまま、看護学校へ進んだ。そして、免許を得た私は、単身で大阪へ出た。友人も知り合いもない土地、働くのも初めての経験、更に重いどもり、何とも言えない不安を感じつつ、私の大阪での都会生活が始まった。
看護師としての生活は、毎日スタッフ間の申し継ぎ、電話の応対、病棟内放送、緊急時の医師への連絡等、話さなければならないこと、伝えなくてはならないことばかりで、どれもが辛い仕事だった。
毎日毎日、どもり続け、悩み続けた。日ごとに、朝の来るのが辛くなった。何度も退職しようと思った。それでも学校を休まなかったように、仕事を休むことはなかった。皆の前でどもり続けた私は、ことごとく、自分を責め、そして辛くて逃げようとする自分も決して許さなかった。どもれば嘆き、逃げようとすれば自分を責める繰り返しだった。結婚、育児と生活環境が変わっても、それは同じだった。
話すことから逃げずに、毎日毎日あんなに話し続けているのに、私のどもりは消えない。どんなに人前で話し続けても、どもることへの恐怖心は増すばかりだった。私はだんだん疲れてきた。どうすればいいのか。前へ進むことも引き返すことも、逃げることもできない状態に自分自身を追い込んでいった。
途方に暮れていたときに、大阪吃音教室と出会った。高校生の時に通った、吃音矯正所とは全く雰囲気が違った。「どもりは必ず治る」と信じてきたのに、ここでは、「治らないよ」とあっさりと言われた。これまで、背負ってきた大きな荷物は何だったのだろう。ここに通い続けたいと心底思った。しかし、家族と、看護師の仕事を持つ身に、毎週金曜日の夕方からの吃音教室への参加は大変だった。それでも、無理をして毎週参加し続けて、私は大きなものを得た。
「吃音と正しくつき合う講座」の中で、吃音について、吃音の原因や治療の歴史について、また他のどもる人の体験など、多くのことを学んだ。どもりは治らないかもしれないが、自分のせいではないこと、自分を許し、ほめることの大切さを知った。
なんとか治そうと必死になっていた頃の、肩に背負っていた大きな荷物が軽くなった。もう自分を苦しめることはやめよう。どもりを治そうと必死になることはやめよう。そう思えたら自分をあれほど苦しめていたもう一人の自分がいなくなった。大阪吃音教室と出会えたことは私の生涯で劇的なことだった。これまでどもることで苦しいことばかりの連続だったけれども、生きていてよかったなあと、今は思える。これから先、もっと苦しいことに出会うかもしれない。でも今度からは、少し気楽にやってみようと思う。そしてやっぱり逃げないで生きていこうと思う。(了)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/15