どもって電話がとれない。電話を回避する対策とは
黙認知ということばを初めて知りました。
苦情の電話がかかってきたときの対応に困った人が考えたことは、電話がかかってこないようにすることです。そのために、自分のミスをゼロにすること、チェックリストを作り自分のミスを書き出して暗記すること、そして、見直しを何回もすることでした。300ページもあるカタログの、関係しそうな所を丸暗記したというから驚きます。どもるために、電話が嫌だとの理由でここまで努力したことが、仕事に対する自信となったのでしょう。僕なんかは、この人と同じ年頃の頃は、どもるのが嫌さに、全ての話す機会から逃げていただけでした。吃音をただの言い訳にしていた僕は情けなくなります。吃音のために、人一倍努力してきた人の体験を紹介します。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/11
黙認知ということばを初めて知りました。
苦情の電話がかかってきたときの対応に困った人が考えたことは、電話がかかってこないようにすることです。そのために、自分のミスをゼロにすること、チェックリストを作り自分のミスを書き出して暗記すること、そして、見直しを何回もすることでした。300ページもあるカタログの、関係しそうな所を丸暗記したというから驚きます。どもるために、電話が嫌だとの理由でここまで努力したことが、仕事に対する自信となったのでしょう。僕なんかは、この人と同じ年頃の頃は、どもるのが嫌さに、全ての話す機会から逃げていただけでした。吃音をただの言い訳にしていた僕は情けなくなります。吃音のために、人一倍努力してきた人の体験を紹介します。
どもりと仕事と黙認知(もくにんち)
「将棋の駒が、音楽のメロディみたいに、流れるように勝手に動くんです」
「十年間一つの仕事に勤めていると、一般の人には見えないものが見え、聞こえ、匂うようになる。本では書けない、大学では教える事が出来ない技術、知識である。これを、黙認知(もくにんち)と呼びます。日本は黙認知を持ったベテランの職人が多くいたので、優れた製品が出来た」
20歳でプロの将棋の世界で一番強かった、羽生名人と、大赤字の伊藤忠商事を黒字経営に復活させた丹羽社長の二人がテレビで語っていた。
早稲田大学の近くにある、どもりの東大と呼ばれていた東京正生学院で、21歳の私は、3年間勤めている会社に4か月の休職願いを出して、どもりを治すために必死になっていた。
「手紙がきてるぞ。これは、君の会社か」
学院の先生が渡してくれた手紙には、早く帰ってこいと書かれていた。大部屋で一緒に寝泊りしている友人がのぞき込んで言った。
「ほんまやったんやな。4か月も休めるはずない、絶対うそをついていると、みんなで話していたんや。ほんまに、いい会社やな」
21歳の青年に、理由もなく帰ってこいという会社なんて私も無いと思う。私が抜けた事で、会社が困っているのである。
私は20歳で黙認知を持ち、21歳までの1年間、ベテランのような仕事をこなしていた。私の替わりに誰が付いても、10年ぐらいたたなければ私と同じ仕事はできない事は、うすうす分かっていた。私が、ベテランと同等の技術を持てたのは、特別に優秀であったからではない。どもって電話をすることを嫌い、電話から逃げるために取った行動の結果そのようになったのだ。
18歳の新入りの私に争えられた仕事は、鉄板の切込み図面を書くだけの、誰でもできる単純な作業だった。しかしそれは、いろいろな不具合、不良品が出て来る。それを解決しながら、進めていかなければならない。また、不良品が出たら、関係者に電話をしなければならなかった。
私は受話器を取る。「み〜み〜……」と声が出ない。「おまえ誰や」。電話の向こうで怒鳴り声が聞こえる。私は何も伝言できずに、そのまま静かに受話器を置く事が度々あった。 その頃の私は、子どもの頃流行っていたボクシングの漫画、「明日のジョー」の主題歌を良く口ずさんでいた。「サンドバックに浮かんで消える、憎いあんちくしょうの顔めがけ、たたけ、たたけ」。人生の勝負に負け続けている私にも、少しは男としての闘争心が残っていたからだと思う。
夢の中で、リングの中央でダウンしているジョーに、トレーナーのたんげのおっつあんが、泣きそうな声で叫んでいる。「立て、立つんだジョー。立つんだ」。私は、ぼうとしながら、自分に言われているように思い、布団から立ち上がる。
通勤の電車。私は椅子に座って、腰を曲げて、顔は床を見て、ぶつぶつ独り言を言っている。「どうする。電話すらできないでどうする」
その時代は、誰一人どもる仲間はいない。未熟で硬直した頭で出した答えは、電話がかかって来なくすることであった。そのためには、自分のミスをゼロにすることと、鉄板の切り込み作業者のミスをゼロにすることだ。チェックリストを作り自分のミスを書き出して暗記する。見直しを何回もする。組立者と一緒に考え、組立者が質問した事は、次の物件では聞かなくても分かるようにした。設計者の図面間違いを解決するために、設計者の300頁のカタログで、関係しそうな所を丸暗記した。
前向きでかっこいい話に聞こえるが、とんでもない。深夜になって、不安になり眠れず、しかたなく布団の中で、会社の書類を出して見ていた。
2年後、ほとんど電話がかからなくなった。全くトラブルが起こらないのである。不良品、不具合はゼロになっていた。20歳で、板金加工、組立作業、設計、自分の仕事に係る事、全て見えていた。図面を見ると、数字が勝手に浮かび上がってきて、わたしはそれをエンピツで書くだけだった。
しかし、仕事には自信がもてても、電話が鳴るとビクッとした。どもる事に関しては、何も変わっていなかった。21歳の時、どもりを治すために東京に行きたいと、4か月の休職願いを会社に出した。本社の常務が会いに来て、休職の制度が会社には無い事を私に告げた。私は、「休めないのでしたら、退職手続きをとってください」と、どもらずにしゃべっていた。
20年後。会社はリストラの嵐が吹き荒れ、ベテラン社員が次々にやめさせられていく。仕事の状況が急変した。大量の見積りを私ひとりで処理できるはずが無い。客からは苦情の電話ばかりである。増員の要求は認められない。「どんどんくる見積りをどうする」。今は会社を辞められない。家族、友人に、実情を説明して、正月以外は休日出勤をする事、朝三時ごろに家を出ることを告げた。
3年後の今は、近所の主婦3人のパートナーが、見積りできるようにシステムを作り変えて、ようやく軌道に乗り、今年から、日曜日は休めそうだ。
この半年、さらなるリストラで、営業のベテランが次々退職し、私にもその危機は迫っていた時、全社会議で、幹部みんな一言発表することになっていた。当日私の順番が回り、マイクを持つ。社長始め百人の、社員の顔をしっかりと見て、そして、力強く、私は大きな声で、しゃべりだした。
「せせせせせ〜きさんの、ほほほほうこくです。ぜぜ前期は一日三億、一か月七十億、一年八百五十億の見積りをしました。ここ今期は、部長より、原価の指示があり…」
席に戻ると、同僚が、「ぴったし、一分だ。それより、後ろの照明事業部の連中が、八百五十億を聞いてざわついていたぞ」と、言った。この発表で私個人のリストラ問題は消滅した。数日後、私の仕事を手伝ってくれているパートナーが、FAXで字が潰れたところが読めないと聞いてきた。しばらく考えて、「消防認定キュービクル」にして下さいと、指示を出す。パートナーは首をかしげて、そのようには読めない、と言った。輪郭からほぼ間違いなくあっていると思う。
話の上手な新入社員が、電話の受付をして困った時、どもる私に助けを求めて電話を替わってくれと言う。また、違う分野で黙認知が生まれてきているのが実感できる。
20年前に必死に努力したのは、どもって電話をしたくなかったからだが、今度は「妻子を養う為」と言う、人に話しても恥ずかしくない理由が有るのがうれしい。(了)
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/8/11