吃音と電話 2 苦手から得意に

 どもる人にとって、電話は苦手なもののひとつだと、昨日、書きました。でも、苦手な電話だからこそ、その特徴を生かして、電話モードに切り替えて、苦手から得意にしてしまった人の体験を紹介します。目の前に相手がいないからこそできる工夫であり、秘訣のようです。

   
電話が得意になるまで
                 西田 逸夫

 横の机の電話が鳴る。急ぎの仕事を中断させられて、少しムッとした気分になる。
 2回目の呼び出し音が鳴る。頭の中で、やりかけの仕事を強引にフリーズする。顔を上げ、受話器に向き直る。キーボードとマウスから手を離し、メモ用紙の束を引き寄せる。シャーペンを手にして、深呼吸を一つ。
 3回目の呼び出し音で、受話器に手を伸ばす。その頃にはほとんど、さっきまで頭を占領していた仕事のことは忘れている。自然に口角が上がり、顔には笑顔が浮かんでいる。この、「電話モード」の時の自分を、私は結構気に入っている。落ち着いて話していられ、ほとんどどもることがない。そう、私は電話が得意なのだ。

 実を言うと私は、しばらく前まで電話が大の苦手だった。
 中学3年から高校1年に進む春休み。この短い期間に、私の吃音症状は一気に悪化した。電話のせいでそうなったと、今でも自分で思っている。
 もうすっかり忘れてしまった、何かの理由があったのだろう。中学時代に通っていた学習塾の連絡係を、その時の私は引受けた。毎日のように何本も掛って来る電話を受け、何人もの相手に電話を掛けた。毎回、先ず自分の名を告げるところで難渋し、回を重ねるごとに電話への苦手意識が強まった。「わわわわわ、私は」という連発性の吃音症状がひどくなったのはもちろん、ことばが完全にブロックする難発性の症状が、この時期に初めて出た。
 難発性の吃音症状は、その後の1年間ほどで電話以外の場面にも広がり、やがて人との会話の全場面に出るようになった。こうして、高校から大学にかけての時期、私は重い吃音症状に悩まされ続けた。その後、社会人になって経験を積み、話すことの場数を踏むにつれ、私の吃音症状は徐々に和らいだけれど、電話だけはずっと、苦手のままだった。何と言っても、吃音症状悪化の大きなきっかけになった電話を、私は好きになれなかった。

 そんな私の苦手意識が改善する最初のきっかけは、今から10年ほど前にやって来た。当時私は、土木設計の会社に勤めていた。その会社の新しい得意先になった社長さんは、独特の電話の使い方をする人だった。
 その社長さんは、どんな差し迫った用件の時でも、落ち着いた口調で電話を下さった。若い頃は一時プロの歌手だったという声は、低音が良く響いた。その声で、ゆったりとした口調で話されるので、その社長さんの電話は、とても聞き取りやすかった。
 仕事の打合せで面と向かって話す時は、その社長さんも普通の口調だった。と言うより、人一倍滑舌が良い分、むしろ早口に話されることが多いくらいだった。それでも、そんな打合せの最中に電話が掛って来ると、低音でゆったりした口調にサッと切り替えて、受話器に話されるのだった。
 この社長さんの電話の使い方に、私は大いに感化された。自分でも電話では、思い切りゆっくり話すように心掛けた。電話が、少し楽になった。それでも、苦手意識はなかなか抜けなかった。掛ってきた電話に出たり、自分から電話を掛けることはなるべく避けた。その社長さんほど模範的な電話の使い方は、私には身につきそうにないと思っていた。ただ、電話口では普段と口調を変えるということだけは、自分にも出来ることだった。
 2つ目のきっかけは、6年前に通い始めた大阪吃音教室だった。論理療法を知って、吃音や電話に限らず、人生のあらゆることに対する自分の態度を柔らげることが出来た。竹内敏晴さんのレッスンを何度か受けて、一音一拍の話し方が時々は出来るようになった。2004年度の吃音ショートコースで諸富祥彦さんのワークショップに参加し、常に自分のどこかに「心のスペース」を確保しておくことの大切さを学んだ。吃音教室の常連の仲間には電話が苦手なメンバーが多く、電話の具体的な対処法を何度も一緒に話し合った。

 2005年の春、職場の近くで大きな鉄道事故が起こった。阪神地域の広い範囲に住む人達が、被害者やその家族、遺族として、事故に巻き込まれた。職場は阪神大震災の復興ボランティアから出発した団体で、すぐに近隣地域の幾つかの団体と共に、事故被害者支援のネットワークを立ち上げた。ネットワークを構成する10余りの参加団体で、常駐スタッフの陣容が一番充実していると思われた私の職場が、事務局を引受けた。その年の6月から12月まで、私の職場では電話回線のひとつをこのネットワーク専用と決め、事故被害者からの相談受信や、団体間の事務連絡に充てた。
 実は私の職場では、ちょうどその年の春から、ある大型事業を始めることになり、スタッフの大半はそちらに従事していた。ネットワークの事務局を引き受けたということは、掛ってくる電話への対応が、ほとんど私一人に任されたということだった。何かほかの作業に取り掛かっている最中でも、私はその電話に最優先で対応せざるを得なかった。どんなに急ぐ仕事の最中だろうが、どんなに込み入った仕事の最中だろうが、一旦その受話器が鳴れば、すべてをなげうって電話に集中することが必要だった。期間の途中からは事務局スタッフが増えたが、その電話には私が出ることが多かった。
 実際には、我々のネットワークの活動は余り広く知られるには至らず、掛って来る電話の9割方は、同じネットワークに属する団体スタッフとの打合せや、マスコミによる取材などだった。とは言え、事故の被害者ご本人やご家族からの電話が、いつ掛って来るか分からなかったし、掛って来ればその内容は、身の引き締まるようなものだった。それに、ネットワーク団体間の連絡の電話も、話題は悲惨な事故被害に直接間接に関わる内容だった。電話の直前まで携わっていた作業のことはほぼ完全に念頭から消し、と言うより、自分に関わる事情の一切をほぼ完全に念頭から消し、電話の内容をひたすら聴き取る姿勢が、いつの間にか身についた。その受話器を手にした私は、もはや急ぎの仕事に気を取られた私ではなかった。その受話器を手にした私は、もはや電話が苦手で吃音を気にする私ではなかった。

 その翌年、長らく海外に暮らしていた知人が日本に戻って来た。帰国に当り、私はパソコンの買い換えと設定の相談に乗った。メールと長い電話でのやり取りを何度か繰り返した後、帰国後の知人宅でパソコンの配線や設定を手伝った。お礼に誘ってくれた夕食の席で、知人は不思議そうに言った。
 「西田君、電話ではどもらんようになったのに、普段の会話では相変わらずどもるんやね」
 このことばに、私は本当に驚いた。電話口でほとんどどもらずに話せているということを、この知人に指摘されるまで、自分では気付いていなかった。
 知人の指摘を受けた翌日から私は、職場で電話を使う時、自分がどんな風に話しているかを観察した。確かに、電話口ですらすら話せていると気付いた。時には長電話で、込み入った話題になるなどして普段の会話口調に戻っていることがあり、そうなれば吃音が出始めることも分かった。そんな時でも、意識して自分を「電話モード」に切り替えると、またすぐに楽に話せるようになった。一方で、面と向かって相手と話すときには、以前と同様よくどもっていることにも、改めて気付いた。
 電話を使う時の自分をよく観察すると、相手の話を聞く時、全身が耳になって聴くことに集中できている。電話では、声以外の情報が遮断されるけれど、逆に言えば、電話回線という1本の細い管の向こう側で、電話の相手が懸命に話し、また、聞き耳を立てている。電話が苦手な頃は、声だけしか伝えられないということをひどく不便に感じたけれど、今ではこの不便さが、雑念なく相手に話し掛けるのにちょうど良いくらいに感じられる。

 今日も電話が鳴る。忙しい仕事の最中だと、一瞬ムッとすることが今でもある。
 しかし、呼吸を整え、「電話モード」で受話器を手にする頃には、私の顔には自然と笑顔が浮かび、掛ってきた電話を大いに歓迎する気分になっている。
 電話をしているときには、最近あまりどもらないということも、歓迎する気分の中にはある。しかしそれ以上に、電話回線という1本の管を通してなら、相手と確かにつながっている手応えを、感じることができるからである。


日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/7/26