應典院での最後の大阪吃音教室
ブログを読んで下さっている方々から、ブログが更新されないことに、安否を気遣うメールをいただきました。大阪でコロナウイルスが広がっていることもあり、心配していただいたようです。ありがたいことです。
日頃から今の政府に大きな不信感と絶望感をもっているのですが、特にコロナ対策の無能さとドタバタぶりに、また世界のトップリーダーとのあまりの能力、人格の違いにただあきれるばかりです。医療や介護の崩壊、教育の崩壊、弱い立場にある人たちの窮状などを映像で見るにつけ、胸が締めつけられる、これまでほとんど感じたことのない不思議な感情に支配されています。
子どものころから感受性が強く、浅沼稲次郎・社会党委員長が刺殺されたときは、ショックが大きくて、次の日、学校へ行けなかったくらいです。
でも、あまり今の状態に支配されているわけにはいきません。僕のブログは、現在の社会情勢に何かコメントするものではなく、「吃音に特化したブログ」なので、周りにあまり影響されずに、これからは書いていこうと思います。春のいい季節に予定していた旅行もキャンセルし、全国各地での講演会や吃音キャンプもそのほとんどが中止か延期になりました。ここはゆっくりと思索をしなさいと言われているのかもしれません。
後数日で僕も76歳になります。いよいよ終活が現実のものとなりました。「吃音」の僕のこれまでの取り組みを総括し、明日への提言を整理する時期にきたようです。僕の人生を振り返る自伝的なことも書いていきたいと考えるようになりました。
何度も、ブログが更新できなかった時、これから、これからと言って、まるで「オオカミ少年」のようですが、また書いていこうと思います。
まず、3月末に書いていた、大阪吃音教室についてです。
3月27日の大阪吃音教室は、2019年度の最後の教室でした。そして、應典院での最後の大阪吃音教室でした。


さかのぼれば、2008年、それまで20年以上大阪市の委託を受けて長く会場として使用していた大阪市立労働会館が、橋下徹・大阪市長の文化や福祉などの切り捨て路線で使えなくなり、会場探しをしました。そして、すぐに、思い浮かんだのが、應典院でした。應典院の住職だった秋田光彦さんに大阪吃音教室の会場として、年間契約をお願いしたところ、快く受けていただき、それから、毎週金曜日、應典院の研修室Bが、どもる人たちの集まる会場として定着しました。
僕と應典院との出会いは、そこからまた先にさかのぼります。
1999年2月11日、雪まじりの冷たい雨の中、大阪での「竹内敏晴・からだとことばのレッスン」の旗揚げとして、竹内さんの講演会を開催しました。150人を超える観客が訪れ、應典院の本堂ホールは、立ち見まで出て、盛況でした。そして翌3月から、竹内さんが亡くなる2009年7月まで、應典院は、大阪での定例レッスンの会場でした。僕たちは、毎月第2土・日曜日、竹内レッスン事務局として、應典院に通い続けました。
2008年4月11日、大阪吃音教室の開講式が、應典院で行われました。機関紙「新生」によると、そのときの参加者は、25名、内初参加は4名とのことでした。松本進さんの司会で始まった開講式は、徳田和史さんの自己紹介ゲーム、僕の吃音何でも質問コーナーという内容でした。以来、12年間、應典院での大阪吃音教室が続いてきました。


その應典院も、今年の3月末、事情で一般利用ができなくなり、3月27日が、應典院での最後の大阪吃音教室となったのでした。門をくぐったとき、僕は、少し感傷的な気持ちにもなりましたが、教室そのものがなくなるわけではないので、すぐにいつもの教室の雰囲気の中に入っていきました。講座のテーマは、嶺本憲吾さん担当で、「どもりについて、みんなで語ろう」でした。初参加の大学生の話を中心に、みんなで考え、みんなで語り合った、いつもの講座でした。
セルフヘルプグループで大切なことは、いつもの時間、いつもの場所で、集まり続けるということです。まさに、ミートし続ける、ミーティングです。應典院を訪れた大勢のどもる人の人生をどっしりと受け止めてくれた應典院、長い間、ありがとうございました。
4月からは、アネックスパル法円坂に会場を変えて、大阪吃音教室は続きます。
僕も、大阪にいるときは必ず参加しようと思っています。皆さんも、会い続けましょう。集まり続けましょう。
ここまで、3月に書いていたのに、投稿しないでストップしている内に、コロナのため、新しい会場を使うことができなくなりました。いつ大阪吃音教室が再開できるか分かりませんが、またみんなが直接出会えるまで、じっくりと吃音について考えていこうと思います。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/24
ブログを読んで下さっている方々から、ブログが更新されないことに、安否を気遣うメールをいただきました。大阪でコロナウイルスが広がっていることもあり、心配していただいたようです。ありがたいことです。
日頃から今の政府に大きな不信感と絶望感をもっているのですが、特にコロナ対策の無能さとドタバタぶりに、また世界のトップリーダーとのあまりの能力、人格の違いにただあきれるばかりです。医療や介護の崩壊、教育の崩壊、弱い立場にある人たちの窮状などを映像で見るにつけ、胸が締めつけられる、これまでほとんど感じたことのない不思議な感情に支配されています。
子どものころから感受性が強く、浅沼稲次郎・社会党委員長が刺殺されたときは、ショックが大きくて、次の日、学校へ行けなかったくらいです。
でも、あまり今の状態に支配されているわけにはいきません。僕のブログは、現在の社会情勢に何かコメントするものではなく、「吃音に特化したブログ」なので、周りにあまり影響されずに、これからは書いていこうと思います。春のいい季節に予定していた旅行もキャンセルし、全国各地での講演会や吃音キャンプもそのほとんどが中止か延期になりました。ここはゆっくりと思索をしなさいと言われているのかもしれません。
後数日で僕も76歳になります。いよいよ終活が現実のものとなりました。「吃音」の僕のこれまでの取り組みを総括し、明日への提言を整理する時期にきたようです。僕の人生を振り返る自伝的なことも書いていきたいと考えるようになりました。
何度も、ブログが更新できなかった時、これから、これからと言って、まるで「オオカミ少年」のようですが、また書いていこうと思います。
まず、3月末に書いていた、大阪吃音教室についてです。
3月27日の大阪吃音教室は、2019年度の最後の教室でした。そして、應典院での最後の大阪吃音教室でした。



僕と應典院との出会いは、そこからまた先にさかのぼります。
1999年2月11日、雪まじりの冷たい雨の中、大阪での「竹内敏晴・からだとことばのレッスン」の旗揚げとして、竹内さんの講演会を開催しました。150人を超える観客が訪れ、應典院の本堂ホールは、立ち見まで出て、盛況でした。そして翌3月から、竹内さんが亡くなる2009年7月まで、應典院は、大阪での定例レッスンの会場でした。僕たちは、毎月第2土・日曜日、竹内レッスン事務局として、應典院に通い続けました。
2008年4月11日、大阪吃音教室の開講式が、應典院で行われました。機関紙「新生」によると、そのときの参加者は、25名、内初参加は4名とのことでした。松本進さんの司会で始まった開講式は、徳田和史さんの自己紹介ゲーム、僕の吃音何でも質問コーナーという内容でした。以来、12年間、應典院での大阪吃音教室が続いてきました。


その應典院も、今年の3月末、事情で一般利用ができなくなり、3月27日が、應典院での最後の大阪吃音教室となったのでした。門をくぐったとき、僕は、少し感傷的な気持ちにもなりましたが、教室そのものがなくなるわけではないので、すぐにいつもの教室の雰囲気の中に入っていきました。講座のテーマは、嶺本憲吾さん担当で、「どもりについて、みんなで語ろう」でした。初参加の大学生の話を中心に、みんなで考え、みんなで語り合った、いつもの講座でした。
セルフヘルプグループで大切なことは、いつもの時間、いつもの場所で、集まり続けるということです。まさに、ミートし続ける、ミーティングです。應典院を訪れた大勢のどもる人の人生をどっしりと受け止めてくれた應典院、長い間、ありがとうございました。
4月からは、アネックスパル法円坂に会場を変えて、大阪吃音教室は続きます。
僕も、大阪にいるときは必ず参加しようと思っています。皆さんも、会い続けましょう。集まり続けましょう。
ここまで、3月に書いていたのに、投稿しないでストップしている内に、コロナのため、新しい会場を使うことができなくなりました。いつ大阪吃音教室が再開できるか分かりませんが、またみんなが直接出会えるまで、じっくりと吃音について考えていこうと思います。
日本吃音臨床研究会 会長 伊藤伸二 2020/04/24